前記のうち、3頁の五龍と、7・8頁には持つ人の名前は書いていないが、これら
は葬式に手伝いに来てくれた人に持ってもらったと思う。 今では、昔どおりの行列をやっているところは別として、尾去沢などではこうし た帳面をつくることもなくなったので、若い人達はこれをみても、なんと読んだら いいのか迷うと思うので、読み方(少し違うかもしれませんが)を参考までに書い ておきます。 2頁 − かりもん、さきとうろう、みずたらい 3頁 − ごりゅう、のばな、はなかご 4頁 − しょくだい、つりこうろ、もりもの 5頁 − くわ、しか、ちゃのゆ 6頁 − こうろ、ぶっぱん、いはい 7頁 − さはづな、かん、あとづな 8頁 − こうりゅう、あととうろ なお、8頁の後燈籠の「ろ」は、炉だろうと思った。外の例に釣香炉ともあるの で、どっちが正しいかわからなくなった。 また私の弟のときのを見たら、先綱のところに親類一同、後綱のところに縁類一 同と書いている。とにかく誰が何にを持つかということは、死んだ人との関係で、 およそのきまりというか、しきたりというか、そうしたものがあったと思う。今で は位牌を誰が持つか、写真を誰が持つかぐらいですが。 こうした行列の順序もその時、その家によって違っていたのではないか、という 気もします。たまたま私のところに大正11年1月に死んだ私の母の兄の長男の行列之 覚がありますが、それは仮門の次は五龍で、水盥の後が野花、釣香炉となったりし ているので、きっちりした決りがあったのか、物知りの世話役の頭あんばいだった のか、といえば怒られますが、私の家のを一つの例として見くらべてみて下さい。 なお大正11年の行列帳の最後、後綱の次に天蓋散米というのがあった。どんなこと をしたのかわからないが、天蓋(てんがい)というのは、虚無僧の深編笠は別とし て仏像、棺などの上にかざす絹傘、とかいうから、お寺にはあったとしても、葬式 の度毎に借出すわけにもいかない(借出したかもしれない)から、から傘か、蛇の 目傘を利用して、花ッコつくりが腕を発揮して、それらしく飾りつけて、代用した のかもしれない。円通寺の住職さんが、お父さんの後を継いで住職になる、普山式 のときに、檀家総代さんの家(山方の阿部佐一郎さんだったと思う)から行列をつ くって、お寺に入ったわけですが、そのとき誰か長い柄のついたきれいな大きな傘 をお尚さんにさしかけてきてあったが、あれが天蓋というのだろうか。 また話しが横道にそれてしまったが、このほかに作り方は同じで表紙は縦書き (役割帳と同じく死亡年月日、俗名、行年何才とか書いている)だが、これを横に 使って、次のようなものがあった。 「為知帳」。これは死亡の知らせを出した人の名前を書いていた。今でもそうだ が、死亡の知らせは必ず二人でまわった。 「香典控帳」、これはその名のとおり、いただいた香典の控。 「部落米控帳」、これは白米1升、工藤七治、というように書いてあるので、その 名前からして元山部落関係の人達だと思う。28人の名前がある。 「不幸手伝控帳」、金何円とか白米2升とか、白米2升金拾銭とか書いてあり、下 タ沢部落の人や親類、つき合いの深かったと思われる人達の名前が書いてある。こ の中に車フ二連とか三連とか書いて、佐々木運蔵とか吹谷喜久治、秋山金太郎とい った名前があるが、これは冬の間私の家に宿っていた別所から鉱山に働きにきてい た人達だと思う。 「友子不幸米帳」というのもあった。これには白米8升5合、元山友子城山区とい うように、何升何合と書いて、中山箱元、東中沢(中山)、元山友子軽井沢区、中 石友子軽井沢二部、中石友子城山区、元山渡利友子中沢区、などとあり、こういう ときはこうと、いろいろきまりがあったと思われるが、このときは1人2合5勺を集 めていたようだ。いわばこれは友子制度の相互扶助というか扶け合いで、家族が病 気になったときなどもあった。尾去沢の友子組織も大きくわけて、2ツか3ツあっ たと思うが、よくわからない。私は元山だったか中沢だったかわからなくなったが、 その頃は大人になって鉱山に働くようにならなくても、子供でも入れたようで、私 の親分は信雄さんのお父さんの赤坂与次郎さんであった。お世話になるだけで、子 分としてのつとめは何んにもしないで、誠に申訳ない子分であった。兄弟分なども 何人かいたが、わからなくなってしまった。 当時の墓の棺を入れる穴は、竪穴だったので、母の場合は夏だったのでまだいい としても、父も弟も1月だったので雪も深く、墓地まで行くにしろ穴を掘るにしろ、 皆さんに大変難儀をおかけしたものと、今更のようにお世話になったナー、という 思いを深くしている。 |