あの、お寺や稲荷さんは、いつ頃建てたのだろうか。私達は別にそんな事は考え
てみたこともなく、ずっと昔からあったような気がしていた。今回真佐博さんが、
これがお寺が出来たときの記念写真だ、と古い写真を持ってきてみせてくれたが
(アルバムにつけたいと思っている)、それには私達の親や兄弟達も写っている。
母親に抱かれている私の妹(栄子)は、数えの一つか二つ(大正15年生)だと思う
から、昭和2年頃のことかもしれない。私達のオバーサンが死んだのは昭和4年の2月
で(私が小学校に入る年)、葬式のときに寺コの坂で写した写真であるが、そのと
き、棺箱を乗せて、おみこしのようにかつぐ台(なんといったろうか、れん台とい
ったろうか)を新しく作ったのを使う最初だ、と聞いたような気がするので、いず
れお寺の出来たのは昭和の初め頃だと思う。
お寺には、ダミコ(荼毘の転化、葬式のこと。ダビに附すとは火葬にすること、 という。)の道具が一揃いあった。法事のときに仏だんをかざるガン木棚(といっ たと思う)、それにしくウチシキなどもあった(ただし、鉢鐘と太鼓はなかったと 思うので、葬式のときはそれぞれの菩提寺から借りてきたと思う)。 今では尾去沢や花輪の町では、葬式の行列を見ることはなくなったが、2〜3年前、 十和田地区の神田や大欠の葬式に行ったことがあったが、昔ながらの行列をつくっ て、墓地まで行っていた。 今は葬式があると、葬式屋さんに頼むと、話し合いながら一切進めてくれるが、 私達は下タ沢にいた頃は、皆んなが集ってお花をつくったりして葬式の準備をした ものだった。どこにもというわけではないが、どこそこの誰と、いわゆる花ッコこ しゃ(こしらえる)といわれる、仕来りにもくわしい人がいて、花ッコつくったり、 いろいろ世話をしてくれたものだった。 下タ沢の人達の菩提寺はそれぞれ違っていたので、お寺を建てるときは、宗派に 関係なく、お互いの生活のために、お互いの仏さんを大事にしていくために、皆ん なで建てたものだと思う。したがって、墓地も3段になっていたと思うが、それぞれ 一族の墓がならんでいたが、下タ沢の人みんなの墓地であった。 お寺は3間に4間くらいだったろうか、板じきで奥の方は1間くらいの押入れが2段 になって、三つに仕切られており、真中の上段は仏だんで、立派な仏像(観音さま など)などもあったようだが、よく見ることもなくすごしてしまった。両側に葬式 の道具や、みんなが集ったときに使う、おわんや小皿、ナベなど炊事道具などが入 っていたと思う。 |