稲荷さんの参道は、勢沢(きおいざわ)の大切坑の、向って右側の赤ダシ(研山
ケズリヤマ)の上に大きい鳥居があって、それをくぐるとすぐ山にぶっつかるので、
その山の斜面を切り開いた道を斜めに右側に上って行った。今は大切坑も閉鎖され、
丹波の沢の砂防ダム工事の関係で赤ダシは取り除かれ、もちろん鳥居もなくなった。
あの鳥居はただ柱を立てたようなものでなく、正式な立派な鳥居だった。同じよう
な鳥居は、新山団地の出羽神社の鳥居(下タ沢の鳥居の方がひとまわり大きかった
と思う。)と、花輪の幸稲荷神社(おぼしなさん)の下タ町のいわゆる赤鳥居など
がある。この鳥居のつくりは、四脚(よつあし)鳥居(両部リョウブ鳥居、権現鳥
居ともいうようだ)というつくりだと思う。
この鳥居をくぐって行く古い参道は、先に私が松房を取ったという峯づたいに真 直ぐ上って行く、本当にせまい山道で、所々石段もあって、上の方で少し右に曲っ て、神社から斜めに下りてくるあたりに出ていたような気がするが、定かでない。 この道を通ってお祭りに行った記憶はないが、2〜3度歩いた気がする。 新しい参道をつくったのは、いつの頃だったろうか。私の記憶の中に、部落の人 達が鳥居をくぐったあたりで仕事をしてたいのが、わずかに残っている。小学校に 入る(昭和4年)前か、1〜2年生の頃だろうか。鳥居の所から斜めにじゃまになる木 を切払いながら(だと思う)、山の斜面を切り開いて、巾1間くらいの道路をつく り、私の家の上あたりでお寺の方からくる道路につないだ。今のように、土木機械 などなく、カッチャとモッコの時代だ。とどれくらいの日数がかかったものか。私 達は、冬になるとスキーを滑ったりして遊んだが、今はすっかり崩れたり、木が生 えたりして、後をたどるのも難しくなった(と思う、下から見ているだけなので)。 先にも書いたように、鳥居もなくなったし、赤ダシもない。涼しい風が吹いてきて、 夏は小屋というよりも、簡単な棚のようなものをかけて遊んだ坑口も、何すること もなく遊びに行った丹波の沢(途中屏風のような岩があったり、高さ5〜6米?の滝 があったりした。)も、数ヶ所の砂防ダムにより様変りし、私達がよく遊びに行っ たトフゴヤも、芳一さんの脇からすっかりヤブになり、また植林された杉も大きく なり、入りにくくなったので行ってみたこともないが、あのケッツすべりしたカノ カ平もなくなったと思う。トヨ子さんの後ろの方から、トフゴヤの方にまわってく るあたりも、すっかり木が大きくなり、トフゴヤの後ろの方の山に見えていた崖も、 側に行かないとわからなくなった。鳥居のあった赤ダシを崩して、芳一さんの脇の 方からトフゴヤの後ろの方にまわる大きい道路(丹波の沢の工事用か)もできてい るが、地形が変った感じで、どの辺歩いているのか、見当もつかなくなった。 下タ沢そのものにダムができたり、澤出さんの頌徳碑も移されたことは前にも書 いたが、寺コに上って行く坂も、下の方3分の1くらい削り取られて、それでも10年 くらい前までは、なんとかのぼって行けたが、今は上り口も崩れたり、木も大きく なって上りにくくなった。今回もなんとかお寺の跡までは、と思ったが、木を切り 払ったり、道をつけ直したりしなければならないので、行きかねてしまった。稲荷 さんの跡も、墓所の跡も、木も生え竹もふえてヤブになっていると思う。一度確め に行ってみたいと思っている。 |