下タ沢会によせて(覚書)

ひとりマタギ − 鉄砲打ち −

 こうして組をつくって猟に行く人達とは別に、ひとりマタギというのもいたよう だ。大湯の下草木の佐多六も1人マタギだったという。

 八幡平、大湯は別として、外の地域にも猟の好きなひとりマタギ的な人はいたと 思う。下タ沢では、芳一家(え)のオド(吉田由太郎さん)は鉄砲打ちだ、といわ れていたように思う。私達は子供の頃は、マタギなどという言葉を知らなくて、た だ鉄砲打ち、といっていたと思う。いつか鉄砲かついで(肩から下げて)出かける のか帰ってきたのか、そんな姿を見た記憶がおぼろげに残っている。葛原から来た 人といわれていたと思うから、葛原はマタギと縁の深い村だと思うから(マタギ村 ?)、鉄砲持っていてもおかしくないわけだ。中新田あたり(三ツ矢沢)にも鉄砲 打ちはいたのではないだろうか。

 マタギは感がするどいというか、神秘的なところがあるというか、いつか中新田 の奈良菊弥さん(明治35年生れ、平成6年93才で亡くなった)が話していたが、大 葛の方から大きな青ジシ(カモシカ。近年ふえて五十枚〜水晶山の方とか、松子沢 ダムの方にも見るようになった)を追ってきたマタギが、中新田に入ってきて、下 モの村にサント(産人、赤チャンを生んだ人)があるナ、といって下新田には入ら なかった、という(そのとき、事実お産をした人がいたという)。お産など「けが れる」といって、きらったのだろう。

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