さて、鹿角のマタギはどうだろうかと思ったが、ともあれ山の神さまをどうやっ
て祀ったか、というくわしい話しは見つけれなかったので、仁鮒の山子と阿仁のマ
タギの話しを書いたわけですが、鹿角市史によると、鹿角の山神社とか山神宮とか
いう神社の名が7〜8所出ているが、どの程度のものか、立派な鳥居もある神社なの
か、単なるお堂なのか、小さなほこらなのか、よくわからないが、先日松舘の下田
初雄さん(90才、菅原神社総代会会長)に会うことがあったので聞いてみたら、菅
原神社の近くの参道の脇に石のほこらがある。それは尾去沢や小坂鉱山が盛んであ
った頃、製錬で使うカベ土(粘土)を掘っていた所で、カベ山といっていたが、そ
の脇の小高いところに山神さんがあったので、持ってきたいといったら、阿部国太
郎さんが背負ってきてくれるといっているうちに亡くなったので、その後いとこの
人に背負ってきてもらった、といっていましたが、それには明治38年、石工阿部な
んとかと彫ってあったという。やはり鹿角でも山に入って仕事をするときは、先ず
山の神さまをまつってから仕事をはじめたのだろう。
鹿角のマタギ部落としては、八幡平地区と大湯地区であったようだが、鹿角市史 によると八幡平地区は、小豆沢、谷内、夏井、熊沢、老沢、湯瀬の6部落、大湯地 区は、白沢、堀内、折戸、箒畑、草木の5部落だが、別のところで大楽前が入ってい る。 大湯の斎藤長八先生の調査によると(鹿角市文化財保護協会「上津野」第2号、昭 52.2)、八幡平地区は小豆沢、谷内、夏井、湯瀬がなく、熊沢、老沢、坂比平、切 留平となっており、大湯地区は箒畑、草木がなく白沢、堀内、折戸、大楽前、扇平 となっているが、鹿角市史の第4巻の発行は、斎藤先生より19年も後となるので、 どっちがとうということではなく、両方合せて鹿角のマタギ部落として考えればい いのではと思っている。 マタギは、シカリ(統率者)を中心に組をつくっていた。これは阿仁も鹿角も同 じだと思う。大湯は7人組で、八幡平は4〜6人であったという。なぜか八幡平地区に は、7や9の奇数をきらう習慣があったという。 鹿角のマタギも「山達根本之巻」を秘巻とする万事万三郎(はんじはんざぶろう、 盤事盤三郎、盤司、万二、万治などいろいろに書かれており、その存在にもいくつ もの説があると、)を始祖とする、何流か知らないが、日光派に属していたものの ようであるが、詳しいことはわからないようだ。 |