下タ沢会によせて(覚書)

山の神さまの日 − 八甲田死の彷徨 −

 シトギモチは、いつつくるかは別として、山の神さまの日には山に入ってはいけ ない、ということで思い出したが、話しは少し古くなるが、といっても私達には語 り継がれてきた話しというか、ついこの間のことという気もするが、明治35年1月、 青森歩兵連隊の八甲田山遭難事件というのがあった。今も八甲田山に行くと、「遭 難記念の像」が立っている。明治35年(1902)といえば、今からおよそ100年前、や っぱり古い話しだ。となると私の生まれる(1922)20年前と思えば、またつい最近 の話だという感じにもなる。話しの概要はこうだ。

 明治35年1月23日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の将兵210名が、例年の雪中行軍 に出発した。1月に入ってから降雪が異常に多く、この日は寒気も厳しかった、とい う。山口少佐の率いる第2大隊の将兵は、平素の略装に通常の外套と防寒用の外套を 着け、1泊の予定で裏八甲田の田代に向った。夕方から雪が激しくなり、途中道を誤 ったため、目的地に到着できず、その夜は半煮えの食事だけで露営。翌早朝から行 動を開始し、猛吹雪のなかを進んだ。体力の消耗と全身凍傷で将兵の4分の1が倒れ た。山中の彷徨はなお27日まで続き、最後には隊を解散して、各人が任意に行動す ることになった。
 遭難救助隊は、26日から出動したが、猛吹雪にはばまれて難航し、27日にいたっ て大隊のほとんどが凍死しているのを発見。生存者はわずか17人で、うち6人は収容 後に死亡する。
 ロシアとの戦争を想定しての雪中訓練だったが、装備の不完全と進退の判断の誤 りから、多くの犠牲者をだすこととなった。
 なお、同じ頃雪中行軍を行った弘前第31連隊は、無事帰営している、という。

 今なんでシトギモチを食った話しが、八甲田山遭難の話しにとんでいったかとい うと、今から大分前、まだ白黒映画の時だったと思うが、この遭難事件を扱った映 画があった。そのはじめの方の場面に、猛吹雪の中に人影のようなものが出たり消 えたり、何にか話し合っているような場面があった。つまりそれは山の神さま達が 山に入ることを禁じられている日に、兵隊達が上ってきたので、どうしようか、と 相談している場面だったように思う。その日は、山の神さまの日であったかどうか はわからないが、1月24日というと、旧暦はおよそ1ケ月違いとして12月24日、つま り山の神さまの日か、オデェシコの日あたりということで、吹雪はつきものだ。た だし私達が、シトギモチをつくってもらっていたのは、新暦だったような気もする ので、本当の神さまの日は(旧暦だと何日で新暦だと何日だ、と)いつなのか迷っ ている。

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