下タ沢会によせて(覚書)

しとぎもち

 しん粉餅の話しがまわりまわって梨の木の話しになったが、この梨の木の斜め川 向いが、ヤキチの屋敷であったと思う。
 それでまた米の粉の話しにもどるが、12月の末頃、米の粉をはたいて、シトギ餅 をつくる日があったように思う。それは、山の神さまの日といったろうか、その日、 山に入ると山が荒れるというので、山仕事をする人は仕事を休む、と聞いたように 思う。その頃、「デェシコ」とか「オデェシコ」とかいうのがあったと思うが、下 タ沢ではデェシコ、いわゆる大師講はあまりやらなかったろうか、今私の頃の頭の 中は、山の神さまの日と、オデェシコやる日とこんがらかって、山の神さまの日 = オデェシコやる日、オデェシコやる日 = 山の神さまの日、とどちらも吹雪が つきものなので、それはしばらくおくことにして、シトギ餅の話しに行くことにす る。

 私の家では、シトギモチをつくってもらった記憶はあまりないが、いつの年であ ったか、私の伯母(幸子の母)の家で、ユルギに座ってシトギモチを焼いた記憶が ある。小学校の高学年の頃だったろうか。
 私の母達の女の姉妹は、七人であったようだが、皆んな子供の頃死んでしまって、 残ったのは四女(幸子の母)、六女(先年亡くなった秋田のカーサンの母)、七女 は私の母ということで、母の一番大きい姉の家(そんな意識はなかったと思うが、 私より年上の兄弟達もいたので)ということで行きやすかったのか、何にかあれば 行っていたようだ、というより幸子の姉のハルエ(松岡正昭の母)が11〜2の頃、 私の家の養女になっており、お嫁に行くときまでいたので、私より10くらい年上だ が、何にかといえば母の家(実家)に行っていたと思うから、私はいつも後ろにく っついて歩いていたのかもしれない。

 さて、シトギの話しだが、その日は山の神さまの日だったのかはおぼえていない が、庭(土間)で米の粉をはたいていた。はたいては粉通し(何んといったか思い 出せないでいる。直径が20センチくらい、深さが10センチくらいの曲ワッパ、底が こまかい網になっている)で何度もふるって通すと、最後に荒い粉が少し残る。そ れを塩水で練ってもらったかわからないが、直径6〜7センチ、厚さ1センチくらいの モチにしてもらって、それをユルギのホドの熱いアク(灰)をかき出して、倒れな いように、それに立てて焼いた。ほどよく焼けると、アクを手でたたいて落とした り、フッ、フッと吹いてとばしたりして食った。腹がへっていて、待遠しかったと 思うが。肝腎の粉の方は、どうなったかおぼえていないが、その一寸、塩ジョッパ イ味だけはおぼえている。

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