米の粉の話しが半殺しの話しになってしまったが、また米の粉の話しにもどって、
私達が子供の頃、どこかの家で誰かが亡くなると、必ず「しん粉もち」というもの
をつくった。これも米の粉をはたいてつくったが、もしかして「搗き返えし」とい
う、ウル米の餅だったかもしれない。大きさは、私達が子供の頃食べた「スイトン」
ぐらいの大きさだった気がする。それは一寸ひねったというか、親指と人さし指で
両側からへこましたというか、変った形だったと思う。外側についているアンコは、
粒アンの塩アンだったような気がする。
そのしん粉もちを食べた記憶が残っているのは、まだ小学校に入る前だったろう か、私達が場所場所といって遊んだところに、まだ家があって、そこの家の誰かが 亡くなって、家の庭(土間)でしん粉もちをつくっていた。そこへ行って、そのし ん粉もちをもらって食べた記憶がある。私もおそらく4ツか5ツで、そういうとき子 供が行けばもらえるということを知っていて、そのしん粉もちがほしくて行ったん だろうと思う。その後何人もの人が亡くなっているが、しん粉もちはつくっていた という記憶は、おぼろげにあるが、食べた記憶がない。学校に入るようになってか らは、子供はそういうところに行くものではない、という気があったのかもしれな い。 ともあれ、それは何んのためにつくったのか、どんな意味があったのか、それを どうしたのか、さっぱりわからない。大きなお皿(サハチ)にでも入れて、仏さん に上げていたろうか。 そこの屋敷は「ヤキチの屋敷」といわれ、鈴木さんといったように思う。それか ら何年もたたないうちだったろうか、その家がほごされて(解体)、カヤ屋根がつ ぶれて残っていた記憶がある。それがいつ、どういう話しになったか知らないが、 片付けられて、私達の遊場になった。大人の人達は、テニスをやったりしていた。 場所を広げるといって、大人の人達が山ぎわや、はじっこの方を削ったりしていた 記憶がある。小学校の高学年の頃(昭和8〜9年頃)であったような気がする。また 場所に向って左側の端の方に小さな沢といえる程でもない沢があって、水がチョロ チョロ出てきており、それを大きな「きっち」にうけて、ためていた。私達は、遊 んでいて、のどがかわくと、よくその水をのんだ。 きっち = 木製の櫃(ひつ)…… |