下タ沢会によせて(覚書)

3月

 3月の彼岸の頃であったろうか、「オジナオバナ」をやった。私の記憶にあるの は、稲荷さんの大鳥居のある赤ダシの川向かいが、道路から少しひっこむように広 くなっているところがあって、そこにナガラ(長木)を1本立てて、それにみんな の家から俵とかサダラ、ワラとか燃える物をもらってきて、高く円錐状に巻きつけ て、暗くなる頃、火をつけた。私達子供は、勢よく燃えるその火のまわりを「オー ジナオバナ、ダンゴッコショッテ、イトーレキトレ」(少し違うかもしれない)と、 となえながら駆けまわった。もしかして、正月のしめ縄もこのとき燃やしてあった かもしれない。

 私達も小さい頃、燃える物を集めてまわったような気もするが、こうした行事は いつ頃までやったのか、いつ頃やめたのか定かでなくなった。戦争という非情の時 代に突入していくなかで、自然と消えていったのであったろうか。  この場所に何年頃できてあったか忘れたが、別所や十二所の方から働きにくる人 のために自転車置場があった。それから何年かして自転車がふえてせまくなったの で、私の家の下と稲荷さんの赤ダシの間にできた。それは終戦頃まであったろうか、 私がシベリアから帰ってきたとき(昭和23年春)は、赤ダシ側は下タ沢の風呂場に なっていた。

 また、春の彼岸、秋の彼岸の二度だったろうか、寺コでシュズまわしをやった (そのジュズまわしをなんといったか思い出せない。百万遍とでもいったろうか)。 私が小さい頃(小学校に入る前だと思う)、一軒一軒の家に入って、ジュズをまわ して拝んで、最後は部落の外れ、定雄さんの家の下も、トヨ子さんの家の下あたり の少し広くなっている川原でまわしたのに、ついて歩いたような記憶がかすかにあ る。いつの頃からか、お寺だけでまわすようになったような気がする。みんなで大 きく輪になって、真中にカネをたたく人がいて、それに合せてまわした。ナンマダ ー、ナンマイダーとでも称えていたろうか、大きい珠がくると、チョコンと押しい ただいて次にまわした。

 ジュズの珠は、茶色いアメ色のような感じで、小さい珠はまん丸ではなく楕円形 だったと思う。大きさは大人の親指と人さし指で輪をつくったくらい、大きい珠は 子供のニギリコブシくらいあったろうか、珠の数は普通百八ツ(宗派によって違う かもしれない)で、これは百八煩悩を除くためといわれ、大きい珠を母珠、小さい 珠を子供珠というとか、数えてみたことがないからわからないが、大小合せて百八 ツなのか、たぶん小さい方の数だけだと思うが、こんなことをお尚さんに聞いたら 怒られるか。
 今尾去沢では、ジュズまわしをやっているところはなくなってきたと思うが、下 モ平や尾去のオバーさん達がまだやっていると思うので、一度行ってみたいと思っ ている。

 ジュズまわしが終ると、各家々で一重か二重ゴチソウをこしらえて行って、イロ リ(2尺四方くらいあったろうか)に鉄ナベをかけて、トウフ汁をつくった。子供 達はみんなついて行って、そのゴチソウを食べるのが楽しみだった。

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