下タ沢会によせて(覚書)

夏〜冬

 夏場は、学校から帰ると家には誰もいないことが多いので、1人でオニギリをつ くって、戸棚を開けてニガキニシ(ミカキニシン)を1本取って、頭の方から皮を ギュッとむいて、下の方を新聞紙かなにかでまいて、そこをつかんで喰い喰い、遊 びに出た。そのオカズは、塩ビキ(鮭か鱒か考えてみたこともなかった)のことも あった。短ザク形(長方形)にゴロンと切って、サハチ(直径30CMくらいの大きい 皿)に入っていた。皮はそのまま喰えないので、皮だけむいて生のまま喰った。キ ウリ(キュウリ)ができる頃になると、それを取ってきて、井戸などにほおりこん でおいて、大きさにもよるが、丸かじりのときもあれば、真中から縦に二ツに割っ て、塩や味噌をつけて、よく食った。今のスーパーなどで売っているのと違って、 太くて大きかった。その味は、今のにくらべると、むしろ瓜といった感じだった。 青梅、スグリもよく食った。そうそうサクランボ、といっても桜桃ではなく、黒い 豆つぶ大の山桜り実だ。桑の実、グミ、バライチゴ、といっても今の子供達は知ら ないかもしれないが、秋になると、アクビ(アケビ)、ブドウなどごちそうだった。 トジラも食べた。下タ沢には大ブドウ(山ブドウ、サナヅラブドウにくらべて大き いので、そういったのか)は、程んどなく、サナヅラはよくあった。それにマツフ サというのがあった。房や粒は、大ブドウとサナヅラの中間くらいだった。これは どこにもあるというものではなく、下タ沢では、稲荷さんの大鳥居をくぐってすぐ 右の参道に行かないで、真直ぐ急な腹のつかえそうな山道を峯づたいに少し上ると、 勢沢の大切坑の坑口の右側の崖けになっているようなところにあった。黒っぽい紫 に白っぽい粉?をうすくふいたような感じで、松の葉のような匂がしてうまかった が、量は少なかった。もう一ケ所、悦子さんの前の崖けになったような所にあった ような気がする。

 それにコハズケ、ジョミ、カシマメもよく食った。カシマメは、トフゴヤの後の 畑になっている所から、トヨ子さんの後からまわって行く方にかけて、いっぱいあ ったが、戦後シベリアから帰ってから行ってみたら、木がみんな切られて、なんに もなくなっていた。今でも山に行けばあるだろうが、尾去沢(町の方)では程んど みかけなくなった。灌木なので、植林などが進めば、切払らわれる運命にあるのだ ろう。コカやマタタビ(といっていたか忘れたが)、コカは定雄さんの後ろの赤ダ シのはずれの方にあった。熟すとうすい緑色の澄んだ感じになって、うまかった。 マタタビは、橙色にうむが、くせがある匂がして、あまり食べなかった。それにク リ、クルミがあった。トチの実や楢の実(ドンクリ)は、渋抜きが大変なので、ほ とんど食べたことはなかった。戦争中は、そうしたものも食べたと思うが、私は一 番食糧難になる頃は兵隊に行って、いなかった(昭和18年1月〜23年12月)ので、皆 んなが苦労して、どんな物を食べていたかよくわからないが、アカシアの葉やカボ チャの茎なども食べた話しも聞いた。
 誰か、戦争中の暮らしの思い出を、聞かせてもらいたいものと思っている。

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