下タ沢会によせて(覚書)

下タ沢にいた頃 − カヤ刈り −

 下タ沢!。今行ってみると、よくもこくな狭い谷間に人が住んでいたものだと思 う。が、私達は何の疑問もなく、それが当り前として、そこで暮らしていた。

 私が下タ沢を出たのは、そこでの生活がいやになったとか、不便だとかではなく て、一番の原因は、カヤ刈りが出来なかったことと、タキ木取りが苦手なことだっ た。カヤが刈れなければ、冬囲いが出来ない。私の家はほんとにアバラになってき て、壁は落ち、まわりはすき間だらけ。シベリアで伐採をやってきたから、木切り は得意なはずだが、それがさっぱり。帰りがおそかったり、日曜でも働きに出たり で、冬になるとコタツに入っている頭の上に、吹雪がかかってくるし、タキ木も満 足にない状態。また伯母(幸子の母)に、畑をやって大根でもキウリでも植えろ、 といわれても、「ウン」とはいったものの、畝をどう作ったらいいのか、種をどう 蒔いたらいいのかわからない。考えてみれば私は、兵隊に行くまで(昭和18年1月 末)、こうした仕事は全然したことがなかった。やったことのないことはできない ことは当り前?で(今も畝を満足に作れない)、これでは兄妹そろってウエ死では ないが、生活が立ち行かない。ということで、皆さんに手伝ってもらって軽井沢 (鉱山住宅、いわゆる長屋)に引越した。昭和27年頃であったと思う。

 私がシベリアから帰って(昭和23年12月)、昭和24〜5年頃だったか、部落の人が 皆出て、シマシコといったあたりの寺岡さんの屋敷跡のずっと上の奥の方(どこと いったろうか?)に行って、カヤ刈りをして、それを別所の方の人に売って、部落 の資金かせぎをするといったことだったと思うが、私はなんとか刈ることは出来て も(もちろん鎌もうまくとげないので、能率も上らないが)、何よりもカヤを一つ かみつかんで、そのカマで刈ったカヤをグルッとたばねることができない。それで もっぱら、皆が刈ったカヤを背負って寺岡さんの屋敷の上の峯のところまでの中出 しだった。それをまた後で皆で2〜30把の大きい束にまとめて、更にそれを何把かつ なぎ合せて、沢みたいにくぼんでいる所(落し?といった)から寺岡さんの屋敷跡 に滑り落した。

 私はシベリアにいた時、人間やっぱり手に職を持っていないと駄目だと思った。 大工さんでも左官やさんでも電気やさんでもいい、何んか得意なものを持っている といい、何にもできない私は、伐採のときはそれ程でもないが、建築現場などに行 っても、いつも難儀な材料運びや雑役だった。それで本職の大工でなくても少し器 用だと、俺も大工だ、俺も大工だと仲間〜5人が本職について行く(一グループ)。 いわれたとおり切ったり組立てたりすればいいので、それで通った。いまだに木を 真直ぐに切り落せない私の腕ではどうしようもない。

 私が子供の頃、私の家には牛も馬もいた。豚も兎もいた。鶏はどこの家にもいた と思う。もちろん一ぺんにそろっていたわけではないが、それで冬場の牛や馬のエ サにワラを買った。それはひとしめ(一締め)いくら、といったと思う。一しめと いうのは、一尋(ヒロ)の縄で束ねた大きさだったと思う。今の子供達は、しめも 一ひろもわからないと思うが、私達は一ひろとは、大人が両手を広げた長さで、5尺 か6尺くらいの長さだということで、あんまりきちっと何尺とこだわらなかった。 おゝよその目安で、昔の人はおゝらかだったと思う。今、念のために広辞苑をみた ら、「ひろ(尋)@(「広(ひろ)」の意)両手をひろげた時の両手先の間の距離。 A縄、水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5メートル)または6尺(1.8メ ートル。)」という次第。下タ沢のカヤも一尋の縄で締められて、一しめいくらで 売られていったろうと思う。

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