幕末の絵師。 参考(出典):「十和田町の先輩」
田中家は、かつては江州(滋賀県)の鋳物師であった。江戸初期にはこの鋳物師は大量に全国に流れ、 秋田にも数人定着した。田中氏は由利郡亀田に始めいて、のち五城目の鋳物座を経て、毛馬内の瀬田石に移った。 仁叟寺の最初の梵鐘は二百七十年前、田中家の先祖歌代(あやしろ)次郎兵エ製作の傑作だといわれている。 茂八郎はその十五代目に当たる。北峰と号した。天保九年九月三十日毛馬内下小路に生まれ、呉服屋を営んだ 彦兵エの長男である。町人の子として生まれたが、少年時代から山口流の剣術が強かったので、 桜庭氏の武士として取り立てられ、盛岡城下に出た。剣をみがくかたわら、鹿角の先輩で、南部氏のご用絵師格の 川口月嶺について四条派の絵を学んだ。 戊辰の役にも出陣し、秋田勢と戦って、その体験から描いた「戊辰戦絵日記」は貴重な文献として同家に 保存されている。一時京都に出て花鳥の森寛斎に習ったこともある。長男虎二郎も画よくし、 また柴田春光は甥に当る。大正七年二月十八日脳溢血で亡くなった。
※お願い:リンク先から戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンをクリックして下さい。 |