鹿角の近代人物伝
 
…… 幕末の絵師と画人町長 ……
△田中茂八郎(北嶺)天保九年(1838)〜大正七年(1918)
△田中虎次郎   慶応二年(1866)〜昭和十六年(1941)
 田中茂八郎保恭ヤスタダは天保九年九月、呉服商彦兵衛の長子として毛馬内下小路に生ま れた。少年時代山口流剣法を学び、桜庭家の武士に取り立てられ、御城下盛岡の屋敷に出 仕した。剣の腕をみかせくかたわら、御用絵師格川口月嶺ゲツレイについて四条派の絵を学 び、北嶺と号した。一時京都に出て同派の森寛斉につき、花鳥画を修業している。
 
 先日、田中家に伝わる茂八郎の遺品を拝見したが、精密な下絵や膨大に習作には目を 見はるものがあった。何よりも驚いたのは、同門の馬渕南渓ナンケイ、泉沢修斉シュウサイ、熊谷 助右衛門など、同門の毛馬内の武士・知識人の習作が多かったことである。その中に師月 嶺の手本や、月嶺に師事した穂庵スイアン(平福百穂ヒャクスイの父)の習作があった。
 
 茂八郎は、戊辰戦争では主人桜庭祐橘の御馬脇として出陣し、多忙な戦陣にあって懐 中にした手帳に戦闘の模様を写している。この絵日記は内藤調一の「出陣日記」と共に 戊辰戦争の有様を後世に伝える貴重な資料となっている。岩手県立博物館等の壁画を飾 っているのは、これを拡大したものである。
 明治三十七年父が没し、茂八郎は田中家十五代を継いだが、既に商売を止め、晩年は 絵筆一筋の生活を楽しみ、大正七年八十一歳で没した。
 
 その長子虎次郎は慶応二年生まれで、内藤湖南や石川伍一と同年である。父の血をひ き画才に恵まれ、鹿角郡役所につとめた時は、後の画壇の雄・寺崎広業コウギョウとは机を並 べ、共に励ましあった仲である。
 明治二十一年二人は東京へ出て、平福穂庵の内弟子となった。しかし無断上京のため 父に呼び戻され、毛馬内に帰った。その後助役を経て同三十三年から大正五年まで十七 年間の長きにわたり、名町長として町民に親しまれた。昭和十六年七十七歳で死去して いる。
 
 なお、田中家の先祖は江州辻村の鋳物師で、元禄のころから由利郡亀田村をはじめ、 全国各地で梵鐘を残している。鹿角には元文年中(1736〜41)鋳造の専正寺の殿鐘等が ある。

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]