鹿角の近代人物伝
 
…… 日立工業の基礎を築いた ……
△米沢万陸   明治元年(1868)〜昭和六年(1931)
 明治の日本鉱業界に革新をもたらした 米沢万陸 マンロクは、明治元年二月大欠村に生まれ た。同八年、第一期生として末広小学校に入学している。
 万陸は、逆境の少年時代をすごした。米沢家は、微禄ながら桜庭家家臣であったが、 維新変革後、父東十郎を失った。次いで祖父織右衛門とも死別、生母は再婚して別居す るという不幸が続いた。明治十四年家屋敷も人手に渡り、祖母タツと花輪村久保田に移り 、日給七銭の柴内小学校教員手伝いとなった。
 
 明治十七年、工部省から移管された藤田組の小坂銀山分析係雇になり、技術者として の第一歩を踏み出した。ひたむきな万陸の才能を愛したのは、同十九年着任した技師長・ 仙石亮である。翌年所長となった亮は、余暇を見ては数学、物理化学、英語等を万力に 教えた。万陸は刻苦勉励して頭角をあらわし、二十五年月給十五円の正社員に、ついで 分析係長となり、三十二年には精鉱課乾錬係長に抜てきされた。
 
 当時小坂は土鉱から銀をとっていたが、既にそれも枯渇し、三十一年には廃山もやむ を得ない程の赤字鉱山であった。新しく所長になった久原房之助は小坂鉱山の命運をか けて、土鉱に代わって豊富な黒鉱を処理する研究を推進した。万陸を主軸とした角、竹 内等新進気鋭の技術者達が苦闘の末、同三十三年画期的な黒鉱自熔製錬法を完成した。 黒鉱はきわめて処理しにくい複雑鉱で、諸外国の文献にも言及がなく、この方法の開発 は資源活用の上で国家的にも意義あるものであった。万陸はこの功により特別褒賞を 受け、鉱業界から偉才の技術者として注目されるに至った。
 
 同四十四年、万陸は日立鉱山を興した久原の懇情によって、日立鉱山本部調査技師と なり、以来久原の股肱として活躍した。大正七年九州佐賀関製錬所長、同十二年には日 立鉱山事務所長となり、文字通り日立の重鎮となった。
 万陸の卓越した研究と技術は、日立工業の磐石の基礎を築いた。世人は「日立の神様」 と称したということである。昭和三年勇退、悠々自適の生活を送っていたが、同六年六十四歳 で永眠した。

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