鹿角の近代人物伝 |
八幡平公民館の北側に、安倍多喜恵先生の彰徳碑が建っている。元は大日堂の境内に あったが、後現地に移された。題字は元司法大臣川村竹治、撰文は川村薫である。末尾 には、遺徳を五の宮嶽の高きに比し、米代川の流れと共に永遠に語り伝えるとしている 。 多喜恵は明治元年十月二十九日、大日霊貴神社宮司安倍嘉津馬の二男として、小豆沢 村に生まれた。花輪小学校を卒業後、同十五年盛岡中学校漢学科に進み、温古塾を経て 同二十二年秋田師範学校高等科を卒業した。 同年宮麓小学校訓導兼校長を拝命し、大正七年の退職まで実に三十年の長きにわたっ て、村の青少年教育、社会教育に尽力している。 明治三十三年、青少年教育の重要性に着目し、学習グループ歓善会カンゼンカイを組織、各 部落に夜学会をおこし、その指導に当たった。博学多識温厚篤実な人柄は、地域の信頼 と尊敬を一身に集めた。 また、当時宮麓地区は小作農が多く、学用品も満足に買えない家が多かった。多喜恵 は地域振興のため、四十三年から農会長を兼ねたが、自費をもって新種の鶏を取りよせ て子供たちに育てさせ、卵を売って学用品購入の足しにした。鹿角に名古屋コーチンが 入った最初である。また大発生したテントウ虫をビン一杯とって来ると、ノート一冊を 与えたという逸話も残っている。 大正五年十月五日、不慮の火災で小学校校舎が全焼、多喜恵は不眠不休で再建に努め た。その後同七年、地域あげての慰留を振り切って退職した。 翌八年、北海道で造林造材事業を行っていた同級生関直右衛門の懇情で、北海道空知 郡三笠村岡山彰学校長に再就職した。生徒数五十人の単級小学校であったが、持ち前の 誠実さで部落民から慈父のように慕われた。翌九年、たまたま見舞った村人の悪性感冒 に感染し、登校して来た子供たちに正装端座して授業を一時間で打ちきることを陳謝し 、二月四日教育一筋の生涯を閉じた。享年五十三歳である。郷里での葬儀には、北海道か ら数人の村人も参列し、切々たる弔辞は人々を感動させたということである。 「鹿角の碑文探訪:顕彰碑」 |