鹿角の近代人物伝
 
…… 長く町長として郷土に尽くした ……
△伊藤良三   明治十六年(1883)〜昭和三十九年(1964)
 昭和三十六年十月十二日、秋田国体に見えられた昭和天皇皇后両陛下が十和田ホテル にお泊まりになった時のことである。時の十和田町長を退職していた伊藤良三氏は参賀 の記帳をすませ、ロビーで小憩していた。そこへ青森県知事山崎岩男氏があいさつにや ってきて「先生、納豆売りの山崎です。先生御健在で」と伊藤氏の両手を握ったまま、 後は涙につまって言葉にならなかった。伊藤先生は八戸中学在職時代、家が貧しく納豆 売りをしながら勉学を続けている山崎少年を、ひそかに援助していたのである。長年を 経て、感動の師弟再開であった。
 
 伊藤良三氏は、戊辰戦争で勇名をはせた文七の長子として、明治十六年一月毛馬内古 町に生まれた。少年の頃から父について漢籍の素読を学び、神童の譽れが高かった。同 三十二年秋田師範学校に入学したが、三年生の春に病気のため退学した。ほどなく青雲 の志をいだき上京、井上円了の哲学館に学んだが、学費に乏しく、卒業を目前にして学 校をやめ、帝国学士院雇となった。
 
 同四十年、家庭の事情で帰郷して毛馬内小学校代用教員となり、文検に合格し、四十 五年には小泉八戸中学校長の懇請により、同校教諭となった。当時の伊藤先生を敬慕し 、最後まで音信を書かさなかった生徒に、農林大臣三浦一男、立教大学学長松下正寿、 前記山崎岩男、八戸市長夏堀悌二郎の各氏がいる。四十五歳の若さで退職、帰郷後は学 問一筋の生活を送るつもりであったが、和田秋田師範学校長の三顧の礼の迎えられ、昭 和二年修身科教授嘱託となった。その後盲唖学校の統合、(秋田)県立学校昇格をなしとげ て帰郷した。
 
 昭和九年、町議会の満場一致で毛馬内町長に就任し、町政の改革に当たった。以来十 七年間町宰として勤め、その間錦木、大湯との統合をなしとげ、初代十和田町長となっ ている。退職後は、在職中に刊行した「毛馬内郷土史稿」の続編として「郷土史資料」 の編さん執筆に当たったが、同三十九年四月十六日八十二歳の生涯をとじた。政教院確 信慈郷善居士という戒名は、先生に最もふさわしい謚オクリナと思う。

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