GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

柴田春光(しゅんこう):柴田良吉

 薄命の日本画家。毛馬内。昭和十年四月十八日没。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 嘱望された青年画家 −
 春光は本名を良吉といい、明治三十四年十二月十一日毛馬内の商家に生まれた。 父は伊惣太、母はロクという。伊惣太は良吉が生まれる前、甥の三二を養子にして家業を継がせていたが、 良吉の生後、三二は小坂へ支店を出して、毛馬内の店は弟の辰三郎にやらせた。
 
 少年良吉は、繊細な感受性の持主で情熱的な性格であった。大正四年高小二年に進級してまもなく、 級長であった太田徳次郎と共に東京へ出奔したが、働きながら勉強しようとしたが夢が結ばれず、 まもなく帰郷のやむなきに至った。その後再び上京し、佐藤紫雲に師事し、号を良雲と称し、絵に精進した。 大正八年山口博覧会に出品して初入選したのは「玉手箱」である。
 
 その後彼は川崎小虎に師事し、春光と号した。大正十一年中央美術展に「東北のある町」を発表した。 これは毛馬内の実家から真向いの家並みと生活を描いたものである。ついでこの場所に雪の降った図が 日本美術院展に入選した。帝国美術院展には「狭布の里(昭和三年)」「雪路の商い(昭和五年)」 「十和田路(昭和八年)」などを発表。その他多くの作品をものした。殊に昭和五年には、 福田豊四郎、小林喜代吉と共に本県から三人揃って仲よく入選したのは評判であった。
 
昭和三年当時伊東深水の門下生であった広田万治の娘多津子と、深水の媒介で結婚して、その夏東京に分家になった。 卑弱であった春光は、長年の苦しい生活にからだをいため、昭和十年四月十八日三十五歳の若さを以て その生涯を閉じた。しかし夫人多津子も画家、長男俊一は「新制作日本画部員」であることは頼もしい。
 
 春光は壮時小坂の福田豊四郎と雁行して将来を嘱望されたが、今や共に亡い。昭和三十七年十一月文化の日に 十和田町図書館は、「柴田春光遺作展」を開き、三十九年八月には秋田市美術館で「采草、春光、興宗三人展」 を開いて、若くして亡くなった画人の霊を慰めた。

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