鹿角の近代人物伝
 
…… 薄命の日本画家 ……
△柴田春光   明治三十四年(1901)〜昭和十年(1935)
  柴田春光 は本名を良吉といい、明治三十四年十二月、毛馬内中町の商家に生まれた。 父は伊惣太、母をロクといい、古くから菓子商いを営む老舗であった。良吉は生来、虚 弱で感受性の強い少年で、商人には不向きだったため、毛馬内の店は弟の辰三郎が継 いだ。
 
 母ロクは、戊辰戦争の絵日記を残した田中北嶺の娘で、その血を引いたのか、良吉は 幼いころから絵の天分に恵まれていた。高等小学校二年に進級して間もない大正四年、 級友の太田徳次郎とともに東京に出奔し、働きながら勉強しようとしたが、当時の世情 は厳しく、青年の志も空しく、帰郷しなければならなかった。
 その後再び上京し、佐藤紫雲に師事して、良雲と号した。修業時代は絵の具も買えな いほど、生活は苦しかった。その中で大正八年、山口博覧会に出品した「玉手箱」が 初入選をはたした。のち紫雲の画風にあきたらず、川崎小虎の門に移り、号を春光と改 めた。
 
 同十二年、中央美術展に入選した「東北のある町」は、実家の真向かいの家並みを描い たもので、同じ構図の「雪景色」は日本美術展に入選している。春光の才能は、ますま す輝きを増し、昭和三年の「狭布の里」、五年の「雪路の商い」、八年の「十和田 路」などが相次いで五回、帝展に入選し、日本画壇に確固たる地歩を占めるに至った。
 
 同三年には、伊東深水の高弟で日本画家の多津子(広田万治娘)と、深水の仲人で結 婚し、画壇の若きホープとして、洋々たる前途を約束されていた。
 しかし、生来虚弱だった春光は、長年の苦しい生活がたたって、病床にふすことが多 くなった。そして同十年四月十八日、愛妻多津子、長男俊一の看取られ、三十五歳の生 涯を閉じた。
 
 長男俊一氏は、現在新制作協会の審査員として活躍し、後進の指導と制作にあたって いる。先年、同人等とフランスに遊び、彼の地でも好評を博したことは頼もしい限りで ある。
 春光の作品は、津島家の「十和田路」をはじめ、毛馬内を中心に数多くの名作が 残されている。

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