鹿角の近代人物伝
 
…… 郷土の興隆に生涯をささげた ……
△阿部藤助   明治十九年(1886)〜昭和三年(1928)
 八幡平公民館の北側に巨大な阿部藤助の頌徳碑が建っている。これは明治三十八年か ら昭和三年まで、助役八年、村長十五年、合わせて二十三年の長い間、無報酬でひたす ら村の振興に尽くした氏の功績をたたえたものである。
 藤助は明治十九年一月、豪農阿部藤次郎の長男として谷内に生まれた。幼少のころか ら剛毅で、物事に頓着しない少年だった。長じて大館中学に学んだが、三十七年十九歳 の時に父の急死にあい、学校を中退して家業を継いだ。
 
 翌年十二月、安倍義恵村長のもと、二十歳の若さで宮川村助役となった。当時は村の 大部分の田が湿田で、特に谷内・永田方面は腰までつかる、ぬかり田であり、米の収量も 反当三俵にみたなかった。藤助は貧しい百姓の生活を見るにつけ、耕地の乾田化と区画 整理を行って、豊かな村をつくろうと決心した。このころ由利郡平沢村の斉藤宇一郎が 湿田の乾田化に成功し、その報告書を手に入れた藤助は、米の増収にはぜひとも暗きょ 排水による乾田化と区画整理が必要である、と村人の間を説いてまわった。
 
 入り組みの多い田んぼの改良工事は、村全体の賛成がなければならなかった。若い助 役を危ぶんだ多くの百姓は、この計画に反対した。藤助は、夏井村の同志阿部善之助と 協力し、寝食をを忘れて村人を説得したが、時には夜に家へ投石されることもあった という。
 同四十年、ようやく全地区の賛成をとりつけ、耕地整理組合を結成して、五十五町歩 余りの土地改良に成功した。総工費は一万七千余円である。
 
 大正二年、東北地方は大凶作に見舞われた。花輪方面の金融家から金を借り、その借 金返済のため、農地を手離す百姓が多くなった。藤助はその対策として、村民自身の手 による産業組合の創立を計画し、万難を排して、三年に有限責任宮川信用購買販売組合 を結成した。六部落に販売所を設け、農業倉庫を建設し、肥料や日用品を供給して、悪 徳商人の活動を防止した。組合は年々発展し、全国有数の優良組合となった。
 藤助はそのさなか、昭和三年五月二十日に四十三歳の若さで病没した。
「阿部藤助君の頌徳記念碑成る」
「鹿角の碑文探訪:顕彰碑」
 
頌徳碑

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