鹿角の近代人物伝
 
…… 行政学会の至宝 ……
△田村徳治   明治十九年(1886)〜昭和三十三年(1958)
 大正期、日本に理論行政学と実践行政学を導入し体系化したのが、田村徳治博士であ る。
 徳治は、明治十九年七月十四日、根市富之助の四男として花輪谷地田町に生まれた。 幼少のころは、なかなかの腕白坊主で、雪の日、稲村橋の欄干を下駄で渡ったり、授業 をさぼって神明社の森で兵隊ごっこをしたので、成績は抜群であったのに、優等賞がも らえなかったということである。
 
 同三十四年花輪準備場を卒業したが、この時全科目に合格したのは徳治一人であった 。青雲の志やみ難く上京しようとしたが、長兄の説得で中止し、二年間花輪小学校に準 訓導として勤め、生徒に大変慕われている。三十六年秋田師範に首席で入学し、卒業後 は明徳小学校に勤務した。四十一年田村家の養子となり、娘キンと結婚している。大正 五年京都帝大法学部を首席で卒業した。一年先輩の滝川幸辰、同級生の恒藤恭、一年後 輩の末川博とは、終生水魚の交わりを結んでいる。
 
 同十一年から三年間欧米に留学し、その後京大の教授に就任して、行政学の講座を担 当した。当時行政学は全く未開拓の学問で、徳治はその先駆者として学問体系の確立に 努力した。昭和八年法学博士の学位を授与され、日本における同学の最高権威として将 来を嘱望されていた。しかし同年、滝川事件が発声した。文部省は滝川幸辰教授の刑法 読本の販売を中止し、赤化教授として休職を命じたのである。徳治らは大学の自治と学 問の自由のため、同学部の教授、助教授、講師の辞表を取りまとめ、大学総長に提出し た。これが全学に発展し、総長以下多くの教授が罷免された。この時田村、恒藤両教授 は除外されたが、この二人がいなければ京大の法学部の再建が出来なかったからだとい う。しかし両教授は学問の自由のため初一念を貫き、断固として辞職した。平素温厚 な博士のどこに烈々たる闘志が秘められていたかと、みな感嘆したということである。
 
 晩年、関西学院大学に新しい学部を創設したが、同三十三年十一月惜しまれながら 病没した。

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