鹿角の近代人物伝
 
…… 幼児教育の発展に尽くした ……
△山口猪祐   明治二十七年(1894)〜昭和五十一年(1976)
 昭和三年十月、東京秀文社から「綴方教育の実際 − 児童の創作意欲に出立する」と いう本が発刊された。著者は八幡平川部出身の山口猪祐である。この本について、東京 女子高等師範学校金子彦二郎教授は、「真摯篤学な著者の永き精進によって能く理論と実 際を生かした」と激賞している。
 
 猪祐は山口百太郎、ヒサの長男として明治二十七年六月二十七日、旧宮川村二ツ屋に 生まれた。幼少のころから俊才の譽が高く、花輪準備場卒業と同時に准教員として錦木 、平元、大湯小の教職についた。大正四年正教員の四角を得て、五年一月宮麓小学校の 訓導となり、篤学の青年教師として将来を嘱望されていた。しかし、この年の十月五日 、猪祐が宿直の夜に宮麓小学校は業火に見舞われた。猪祐は、校長安部多喜恵とも ども責を負うて退職した。この事が猪祐の運命を大きく変えた。
 
 猪祐は、青雲の志をいだいて上京した黒澤隆明、大越新一、高橋孝一との四人で麻布 に小さな家を借り、山口電機KK会長松三郎氏も、三ケ月ほど猪祐の世話になってい る。
 猪祐は勤務のかたわら、日大高等師範部を卒業し、昭和十九年東京石神井西国民学校 の校長となった。在職十一年八ケ月にわたり名校長として令名が高かったという。同校 を退職後は、かねてからの念願である幼児教育のため、練馬関町に「ちぐさ幼稚園」を 創立し、以来二十年の長きにわたって園長を勤めている。
 
 この間、東京私立幼稚園協会理事長、日本幼稚園連合会理事長、日本教育連盟副理事 長などの要職を歴任している。また、同四十六年勲五等双光旭日章、四十九年全国放送 教育連盟の感謝状など、数々の表彰を受けている。五十一年四月十二日、八十四歳の高 齢をもってその生涯を閉じた。
 なお、猪祐が生涯尊敬していたのは、叔父岩吉である。岩吉は東京で言語を絶する苦 学の後、北大に学んだ秀才であったが、若くして病魔に倒れた。山口一族の苦闘の歴史 には、懦夫ダフを奮起させるものがある。

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