鹿角の近代人物伝
 
…… 米博士とよばれた ……
△大里新吉   明治三十二年(1899)〜平成元年(1989)
 人間の真価は棺を覆ってはじめてわかるというが、平成元年三月三十一日青森市常光 寺で行われた大里新吉の葬儀は、寺始まって以来の盛儀であった。青森県内ばかりでな く、全国各方面から贈られた献花は、広い斎場や境内を埋めつくしたという。九十一年 の全生涯を米の改良普及に捧げた、氏の人徳のしからしめるものであった。
 
 大里新吉は明治三十二年九月、新八・トメの長男として毛馬内古町に生まれた。主家の 大里巳代治は鹿角有数の大地主で、新八はその養弟である。四十三年新八は分家となり 、米屋を開業した。新吉は大正三年三月、(秋田)県知事・郡長賞授賞の優秀な成績で小 学校を卒業した。その後は大倉実業学校に進学することになっていたが、商人は努力す れば限りなく大きくなれるという親戚の意見に従って、青森市の米穀問屋小林商店の見 習奉公に入った。
 店の主人竹四郎は、仕事にもしつけにも厳しい人であったが、店員の教育には深い理 解をもっていた。新吉は朝四時の起床から就寝まで、商売のことばかりでなく、習字・ 数学・簿記・語学などの指導を受け、幅広い教養を身につけることができた。
 
 同九年、米の鑑定・買付・販売等の修業も終え、毛馬内に戻った。しかし間もなく主人 の急死に遭い、小林一族の懇願により長女むめと結婚し、小林商店の支配人となった。 新吉は、父新八や弟久次郎の援助により、湯沢の空蔵を借りて大量の秋田米を買い付け るなど、小林商店の商圏拡大に努めた。
 またその一方、産米の改良、精米方法の合理化、胚芽米の調整方法などに数々の貢献 をし、米博士とよばれた。昭和十年から二十年までの戦時統制時代、青森県が危機を乗 り切った陰には、新吉の並々ならぬ努力があったという。
 
 戦後は青糧興業社長、青森正栄代表取締役などを歴任し、また長年青森市ライオンズ クラブの会長をつとめた。そのほか死後の献眼を遺言するなど感動させられる逸話が多 い。新吉の信条は、「信用は無形の宝、真剣の前に不能なし」であった。

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