鹿角の近代人物伝
 
…… 足尾銅山興隆の基礎を築いた ……
△青山庄蔵   天保元年(1830)〜明治二十五年(1892)
△青山七三郎  安政元年(1854)〜大正八年(1919)
 日本ゆうすうの銅山足尾銅山の隆盛の陰には、二人の鹿角人の姿がある。後に銅山王 とよばれる古川市兵衛が足尾銅山を買収したのは、明治九年十二月のことであった。当 時の足尾は、山勢がふるわず微々たる小鉱山に過ぎなかった。市兵衛があえてその買収 に踏みきったのは、青山庄蔵の有望なりとの鑑定に基づくものであったという。
 
 庄蔵は天保元年十一月、青山金右衛門の長子として三ツ矢沢に生まれた。戊辰戦争に は花輪二番隊大砲片として出陣している。その後鉱山の探鉱・開発にあたる山相家サンソウカ として働き、古川市兵衛の要請で足尾へ移住し、旧態にして不能率な鉱山経営の改 革にあたった。
 
 明治十年庄蔵は、生野にあって採鉱に従事していた従弟七三郎を招いて、富鉱が予態 される部分の開削に当たらせた。しかし、予想した鉱脈が発見されず、加えて坑内に大 湧水が発生した。十五年資金が枯渇し、市兵衛は涙をのんで足尾を廃山することにした 。その時庄蔵は、自分や七三郎などの全報酬を辞退し、南部山相家の名誉と家運をかけ て、六カ月の猶予を願った。それからわずか数カ月後、一大富鉱を発見し、これが市兵 衛を銅山王にのし上げたのである。この時、白根や尾去沢から多くの熟練坑夫が採用さ れている。
 
 庄蔵は晩年、尾去沢に隠栖し、市兵衛とは終生水魚の交わりを結すんだ。その親密さ は、兄弟のようであったという。同二十五年五月、田郡で病没している。
 
 青山七三郎は、金右衛門の弟主一郎の長子として、安政元年六月田郡に生まれた。明治十 年、庄蔵の招きで足尾に来山、銅山測量坑部正副課長を歴任した。寝食を忘れて探鉱に 没頭し、足尾隆盛の基礎を築いている。
 
 また、鉱山の発展に伴い、坑道が深くなり湧水が大問題となると、排水作業に取り組 んだ。はじめ蒸気機関によったが、それも不可能となり、同二十三年水力発電所を建設 した。日本で最初に電力を坑内に利用したのは、七三郎である。三十一年重役会議員と なり、坑内巡視中に眼を負傷し、三十四年退職した。大正八年五月、病没している。

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