鹿友会誌(抄) 「第三十八冊」 |
△柴田春光氏追想 福田豊四郎 柴田春光氏と僕と初めて会ったのは、小坂の柴田氏の叔父さんの家であったと思ふ。 その節、亡くなられた叔父さんが、福田家の先祖、大館の福和と柴田家との関係を 詳述して、二人仲よく勉強して行ってくれ、と話されたのでした。 私はその当時、京都に住んでゐましたので、滅多に会ふことも無かったのでしたが、 お互に消息は、時々の展覧会で発表し合った作品で、健在を祝し合あと云ったものでした。 柴田氏の作品の処女出品は、大正十一年、中央美術展に発表した、東北のある町、と云ふ絵、 毛馬内の実家から真向ひの家並と生活を画いたもので、非常に評判を得、中央美術の 口絵になるし、賞になるし、羨ませたものです。この構図は、鏑木清方氏や川端龍子氏に 激賞されました。その後、この場所へ雪の降った図は、院展に入選し、帝展には、狭布の里、 と云ふ題で、今少し大きく構図して、バックの風景もとり入れて、秋の情趣を表現しました。 その後、一昨々年ののは、十和田道といふのも矢張り、仝様の構図に、前景に客待ち馬車が とり入れられて、秋の構図でした。 氏のふるさとへの愛着は、このことでも知られると思います。 柴田氏の作品の中には、郷土の種々の生活風俗が、ありのまゝに、語られるのでした。軒下の 干大根、干餅、店に並んだ林檎、その他の品々まで、刻明に一つ一つのものが、愛を持って描き わけてありました。それは、現実にその場所を画面の上に築き上げる努力であった、柴田君は、 鹿角の模型を作らうとしました。そして次々と愛する彼の故郷、わが鹿角が、部分的に、又、 季節を変へて、展覧会に発表されたのでした。そして人々は、柴田氏の作品を通して、 鹿角を認識し、憧れを感じて行きました。ありのまゝの詩情が、彼の画面から人々を魅了する のでした。 |