鹿友会誌(抄) 「第三十八冊」 |
△柴田春光氏追想 初め、院展に出品しました、途中、私達の関係してゐた国展にも、鉱山を描いて出品した こともありました。後、帝展に発表する頃、私も丁度、上京しましたので、東京では、 秋田美術会をこさへたり、事務のことも色々お願ひして、事務所も、ずっと柴田氏宅へ お願ひしてゐました。 淋しがりやの彼は、家へ人の集るのが好きだった。例の説教強盗の横行した、昭和三年の暮、 忘年会を柴田氏宅で御馳走になり、おまけに、僕が、つまらないことで、仝席の油画描きと けんかを初めて失敬したことがあった。 随分、私も我がまゝだったが、僕の話もよく聞いてくれたし、ざっくばらんの私の画論にも よく耳を傾けてくれた。ある時は失礼な程に言っても、決していやな顔はしなかった。 仲々そして熱情的であった、実に、彼の身体に反比例して直情的だった。 全く惜しいことをした。もう半年以上になって仕舞った。僕など、省みて一年を無駄に暮らし、 日々苦渋して、ロクな絵も出来ないでゐるのだ。柴田氏が羨ましいこともある。 柴田君の肉体的弱さが、今考へると逆に彼の絵に閃き通した銀のやうな感情線を、温く つゝんでくれたのではなからうか。 彼は、白光のやうに、自分の生涯を貫き、散って行った。 鹿角の民情も推移してゆく。柴田氏の作品は、幾点もあるだらうか、いつか機があったら彼と 語るやうに、あの郷土さながらを物語る氏の絵を、心ゆく迄味ひたいと思ってゐる。 僕も、柴田氏の繊細な感情と、郷土を愛する、純情な話手になりたい。尚歌ひ手になりたい。 柴田氏の未亡人は、四人のお子さんを育てゝ、御自分も絵を描いて行かれるそうです。 柴田氏もこのよき夫人の意志を、地下で喜んでゐられるだらうと信じます。 柴田氏への追憶、たどたどと話してみました。(昭和十年歳晩) |