GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

勝又平太郎

 地域産業と県政(秋田県)の発展に貢献した。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 地主の地位を善用した徳望家 −
 勝又平太郎は、嘉永五年五月二十九日毛馬内の素封家に生まれた。幼児から泉沢塾に学び、 明治七年有志とはかり、率先出資して毛馬内小学校を創立した。また地方産業振興のため、 明治十一年には勧業場を三の丸に設けたり、多年にわたり造林業に尽くした。 明治十二年県会議員に当選したが、その任にあたること十数年に及び、遂に副議長として大久保鉄作 らと共に県政に尽力した。明治二十二年の紀元節は憲法発布の日であったが、丁度本県では議会が解散 されていたので、この盛典に参列することができなかった。秋田の官民はどうかして県代表をも 宮中の祝典に参列させたいと、前副議長の平太郎を上京させることになった。平太郎は黒田清隆首相や 松方正義内相に体当たり的陳情したが不可能であった。そこで「奉祝文」を天皇に捧呈した。 「県人一同も東京市民の祝賀行事に参加する」ことを土方久元宮内大臣に請願して許可を得たという エピソードもある。 この頃から勝海舟と親しくなり、二十五年上京の際氷川の勝邸を訪ねて揮毫を乞うた掛軸と額面は、 同家に保存されている。
 
 明治二十八年毛馬内町長に挙げられた。ついで農工銀行創立委員となり、後監査役となった。 明治三十年ころは日清役後の不況が農村をおそった。これを救うため産米改良の基礎をなす耕地整理 を決意し、明治三十四年から計画をすすめ、幾多の難問題を処理し、自ら組合長となり、 大部分の経費を負担し、四十三年鹿角郡で初めての毛馬内森崎耕地整理を完成して、他に模範を示した。 なお町村制実施以来毛馬内町会議員として地方開発に寄与した徳望家であった。大正元年九月九日病のため没した。
 
 現当主七郎は平太郎の四男で、盛岡高農卒業後、林政や学事にたずさわり令名があり、 その養子悌三は農学博士で岩大助教授となり、昭和四十七年一月文部省在外研究員として米国のバーモント大学 に赴任した。

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