鹿角の近代人物伝
 
…… 地域産業と県政(秋田県)の発展に貢献した ……
△勝又平太郎   嘉永五年(1852)〜大正元年(1912)
 勝又平太郎は、御給人周治の長男として、嘉永五年五月二十九日毛馬内下小路に生ま れた。幼少の頃から泉沢修斉の漢学塾に入門し、その頃から豪気俊敏、沈着にして将 来有為の英才と嘱望されていた。社会に出てからは、一方では政治家として活躍は、ま た、一方では地域産業の発展のため多くの事業を行っている。
 
 勝又家は明治初年に、地価金一五〇・四九五円と評価された郡内一の豪家であった。平 太郎はその財力を活用し、明治五年学制発布に当たっては率先して私財を投じ、毛馬内 小学校を創立した。また、津軽街道坂梨峠の開削には、工費七五〇両に対し一五〇両を 献金して、その完工に貢献している。さらに、地域産業の発展に意を用い、毛馬内三の 丸に勧業場カンギョウバを設け養蚕を奨励し、土地改良に尽力した。
 
 同三十四年には、森崎土地改良耕地整理組合を創立した。これは貧しい農村の振興に は、秋田のくされ米と悪評の高かった米を改良し、また耕地を改良して増収をはかる外 はないという考えからである。そして、自ら組合長となり、多くの資金を投入し、地域 農業の面目を一新、本郡初の耕地整理事業として、他の模範となっている。
 
 また、地方行政にも尽力し、同十二年推されて県議会議員に立候補し、若年ながら最 高点で当選した。以来十数年、県議会の一方の雄として活躍している。当時、県議会と知 事が対立し、県議会は機能停止のような状況下にあった。そして二十二年二月十一日の 憲法発布の盛典に、県代表を送ることができなかった。平太郎は副議長として上京し、 黒田首相、松方正義内相に直接陳情したが間に合わず、土方ヒジカタ宮内大臣に談判して、 祝賀会参列と奉祝文を奉呈することに成功した。
 この頃勝海舟と親交を結ぶようになり、氷川の海舟の私邸で揮毫してもらった 扁額と掛軸は、今も同家に保存されている。
 
 同二十八年、毛馬内町長に推され、地方自治の確立に努め、ついで農工銀行創立委員と なり、設立後の監査役に就任している。
 大正元年九月九日、その識見と才腕を惜しまれながら病没した。

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