鹿角の近代人物伝
 
…… 天才的作曲家 ……
△小田島樹人   明治二十八年(1885)〜昭和三十四年(1959)
 鹿角の空に夕刻を告げるチャイム「山は夕焼け」の名曲で、広く市民に親しまれてい る小田島樹人は、明治十八年三月二十日、達識の名郡長由義と才女ハツの二男として 花輪町に生まれた。
 
 名を次郎といい、長兄は俳人町長徳蔵卯宇ソウウ、末弟は胡六こと六郎である。樹人は氏 の俳号である。花輪小学校に学んだが、少年の頃から多彩な才能に恵まれ、書は教師も 舌をまく程だった。盛岡中学を経て、七高鹿児島造士館に進んだが、生家が大火で全焼 し、一家が上京、青山に移住したので、同校を無断で退学し上京、東京音楽学校(芸大 )に入学した。
 途中で病気で休学、房州富浦で療養することもあったが、在学中から北原白秋や中山 晋平等と新しい音楽運動を興し、在学中に名曲 「おもちゃのマーチ」 を作曲し注目を浴 び、大正三年同校を卒業した。
 
 高校、中学校など高給の就職口を断り、東京三光小学校の音楽教師となり、当時勃興 していた新しい音楽運動に専念した。
 曙村三の岳の夕暮をイメージして作曲したという「山は夕焼け」もこの頃の作曲とい われている。

三の岳
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 樹人は、稀に見る多芸の人である。特に文学的才能に恵まれ、俳句、短歌はしばら く都新聞の選者をつとめた程であり、兄弟揃って俳人であるが、その中でも樹人は異色 の偉才であった。英仏独語に明るく、外遊の志もあったと思われるが、当時経済が許さ なかったようである。
 
 氏は生来、天衣無縫、無欲恬淡の人で、一片の届出で済む音楽の免許状も申請しなか った。従って最後の任地秋田高校の十八年間も講師でつとめ、恩給もないまま、昭和二 十九年十一月病気退職した。

 (鹿角)市民に広く親しまれている「鹿角小唄」「湯瀬小唄」「花輪小唄」も樹人の 作曲で、作詞の川村薫氏(別掲)と一室に籠もり、女の長じゅばんをかかげて作曲した という。
 
 小坂元山小学校の校歌、花輪高女応援歌も作曲し、最晩年、平元小学校校歌は未完で 了り(六郎氏が完成)、同三十四年十月天才的才能を十分開花することなく病没したが 、名曲のチャイムが続く限り、樹人は人々の胸に生き続けることであろう。
「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」
「鹿角の校歌」


 上記中、「湯瀬小唄」の作曲は樹人とあるが、平成26年鹿角市文化財保護協会工藤利栄理事の調査によると、その作曲は、中山晋平であることが判明しました。よってここに訂正致します。[守]

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