鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△亡友伝
○勝又平太郎君 君は嘉永五年毛馬内町に生る、敦厚の性、郷党の服する所となり、 能く家名を墜さず、生涯公共事業に尽瘁するを其の任となし、老に及んでも孜々として 怠る所なかりしが、本年八月宿痾の為め溘焉として逝かる、悲哉、今其の略歴の概要を 挙ぐれば、
 明治七年地方有志と計り、率先出費して毛馬内小学校を創立す、同九年鹿角郡上向村 ・山根村地租改正総代人として能く其の任を果たす、同十一年勧業場を三の丸に設け実業 振興を画す、又別に先代の遺志を継で造林を怠らず、同十二年撰れて県会議員となり、 拾数年継続、遂に副議長に至る、同廿一年自治研究会を造り、町村制を研究して地方の 自治に裨益する所少からず、同廿四年頃毛馬内倶楽部を創立し、地方人士の意志疎通を 計る、同廿五年毛馬内小学校新築に当り起工委員として頗る尽瘁する所あり、同廿八年 毛馬内町長に挙げらる、同廿九年農工銀行創立に当り委員を嘱託され、後監査役に挙げ らる、同卅四年森ケ崎の湿地を耕地整理をなさんと計画せるが、時の許さざるものあり しに係らず、遂に四十二年工を起して、四十四年竣功せり、尚町村制実施以来、毛馬内 町会議員を継続し、郷里の為め始終一日の如く尽瘁の労を惜まれざりき。
 君の為人に就ては、左に掲ぐる代口・高橋両氏が、君の柩前に朗読せる吊詞によりて見る 可し
 
 嗟呼吾先輩勝又君逝けり、哀い哉、君は終始公共の事に従ひ、殆んど地方代表者的の 人なりし、教育に農事に町村自治に県事より国事に至る迄、苟も地方に於て処理すべき ものは挺身其衝に当り、又は望まざるものも必選ばれて之に関係せざるものなし、蓋し 家格一町に抜くものあるべしと雖も、人物にして其徳望要素を備ふるによらずんば茲に 至るべからず、先きに農工銀行の監査役に選挙せらるゝや予輩に謀るに公職は疾くに飽 果てたり、然りと雖も地方便宜の為めに之を受くるは止むを得ざるなりと、而して身を 終ふる迄で之を辞せず、以て其公共思想に富めるを見るべし、特に其人格の崇高にして 仁徳に富める、曾て早朝十金を懐にして予を訪ひ来り、曰く、
昨、某に途に逢ふ、其究困の状、察するにあまりあり、君密かに之を贈れ、決して他言す べからず、
と其陰徳往々如此ものあり、要するに君の事業には、驚天動地の快挙なしと雖も、終始 公事に鞅掌せられたるの効績没すべからず、而して今や病んで起たず、空しく北亡(亡 偏+阜)山下の塵となる、嗚呼哀哉。
 予輩平素指導提撕を受けたるもの、本日の葬儀に列して、九腸為に寸断せんとす、 謹んで弔意を述ぶ矣
  大正元年九月十二日
        豊口竹五郎
        高橋榮治

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