鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△佐藤良太郎君追悼記
(一)中小路のワコ様時代の佐藤良太郎君   川村十二郎
△お河童さんに滝縞のハッピ姿
 私は、佐藤良太郎さんの卒去に対して、今更愚痴や繰言を並べることは止めやう。何 うも明治四十五年と云ふ年は、大日本帝国の為にも、また吾が鹿角郡の為にも、花輪町 の為にも、而して又吾が鹿友会の為にも、余程悪ひ厄年であッた。
 
 私は、佐藤さんには不思議と非常な御世話になッた一人である、けれども佐藤さんに 就いては、特に書き記すべき余り多くを知ッて居ないことを遺憾とする。チト変な様だ けれども、其れに相違ない、私の幾何か知って居るのは、主もに佐藤さんの東京在学時 代、それも中学時代の事だから、私等の知って居る程の事は、大概外の人も知って居る 事なので、特に佐藤さんの人格を偲ぶ種となる程のことは、先づ無いと云って宜しい。
 
 唯私は、佐藤さんの幼年時代、即ち中小路のワコさま時代の事を少しばかり記臆して 居る。今私が筆を執り机に向って、つくづくと二十有余年前の幼稚時代のことども回 想すると、自分達がタワイも無く遊び戯れた当時の光景が髣髴と、宛然活動写真のフイ ルムの様に、其れからそれと眼前に展開されるのである。
 
 云ふまでも無く、中小路のサシンさんといへば、上の村六、小上清水コガミシヅ、小又、 舘の中野さん等に対して、横町の村山、袋町の吉田さいと共に下花輪に於ける大ッき方 、即ち門閥家、花輪の上流貴族の筆頭で、従ッてサシンさんの下花輪に於ける威望と云 ッぱ実に凄まじきものであッた。それは当時、子供社会の有様を見ても如何に堂々たる ものであッたかゞ想像される。丁度私などが八九歳頃には、何百人と云ふ全花輪の子供 の中で、ワコ様と崇められる者は、前に云ッた五六人しか無かッたものだ。学校などへ 行ッても、これ等のワコ様達の周囲には、家来共格の子供等が大勢附き纏ッて居て、 チヤホヤと子供相応の世辞追従を云ッたり御機嫌取りをするのが常であッた。
 
 其の頃の中小路のワコ様たる良太郎様は、頭髪は房々した可愛らしいお河童さんにし て、縞の袴を穿いて、茶の大きな滝縞のハッピを着て、快闊に遊んで居られたものだ。 私が佐藤家に養はれて、一時横丁に住まふことになッてからは、中小路は同じ町内でサ シンさんと云へば、町の旦那様だから、良太郎様には吾々も大に敬意を表さなければな らなかッたものゝ、固より吾々風情とは、お月様と鼈スッポンほどの身分違ひだから、トテ モ口をきくなどゝ云ふ事は、出来はし無かッた。
 遥か遠くの方を良太郎さんが、例の家来共の子供等に囲繞かれて悠々と練り歩いて行 かれる態が、今私の頭脳の中にアリアリと残ッて居る。
 
 可愛らしい此の小公子の姿が、花輪小学校から消えてしまッたのは、吾々が尋常四年 生位の頃でゝもあッたらうかと思ふ。良太郎さんは、お父様の要之助氏が重い脊髄病に 罹られて、療治の為、家を挙ッて東京に移住されることになッたのであッた。上京後の 良太郎さんは、本郷小学校(今の元富士町の警察署裏)に通ッて、同校を卒業された筈 である、
 其の時分、小又の田村定四郎さんも矢張中途から花輪の学校を去られて、良太郎さん と一緒に本郷学校に通はれた様に聞いて居る。
 
 此の一事は、良太郎さんの一代の事跡中、看過すべからざる、余程重大な事柄である と私は考へる。即ち中小路のワコ様が東京の真ン中に出て、本郷学校から、中学の郁文 館、早稲田大学と漸々学校生活を続けて、琢磨研砺された結果、遂に玲瓏璧の如き、極 めて平民的で円満な、如何にも軽快で気持ちの好い上品な好紳士になられたのである。 固より天資聡明な人ではあッたに違ひないけれども、若し良太郎さんが、お父様の御病 気もなく、従ッて早く東京へ出られる事も無かッたとしたら、果たして如何であッたら うかと、何の道東京に遊学を思ひ立たれたであらうけれども、或は遂に一個中小路のワ コ様で終られたかも分らない。而してまた身分違ひの吾々などが氏の人格に接し、多大 の同情に浴することも無論出来なかッたらうと思ふ。
 
 鹿友会の為に尽力されたことは非常なもので、何日かも記したとおり、長い間大里様 (法学士)と共に、幹事として後進の指導保護に努め、鹿友会の中古時代の隆盛を致さ れた功績は、実に一々挙ぐることは出来ない。又鹿友会の為に誰も知らない事に、黙ッ て金を使はれた額も莫大のものであらうと思ふ。
 
 夫人を迎へられて郷里に引込まれてからの佐藤良太郎様の消息は、吾々は殆ど耳にす るの便宜を持ッて居なかッたけれど、察する処、佐藤様は、政治家としてはあまりに円 滑過ぎた人であッたらしい。あまりに如才なく周囲の凡べてに対して円滑を保たうとし て、却ッて何れの方面からも、割合に同情を得られ無かッたらしい。即ち氏は、政治家 として尤も重大な要素の一たる、意志の鞏固と云ふ点に於て、何うも欠くる処があッた 様に思はれる、それが為に折角政治的舞台に立ッても、凡ての人を時分の味方にしやう として、或は主義を二三にしたかと疑はるゝ言動をされ、飽くまで正々堂々と旗幟を 鮮明にして、猛然陣頭に立ッて的と輸贏を決するといふ男らしい武者振りを見せられな かッた為に、却ッて敵にも味方にも重んぜられなかッたといふ様な傾きがありはし無か ッたかと思はれる。
 
 帰郷された時、吾々は内心、氏に対して未来の花輪町長を以て期待して居ッた。而 して又吾々は未来の県会議員として、大に氏に嘱望して居た一人である。氏は実業家と しても、過去に於ては失敗の人であッた。成功すべくして、然も機運が到らなかッたの であらう。何事に由らず、自分の郷里で仕事をするのは、余程困難なものだとは、経験 のある人の語であるから、佐藤様の過去に対しても、大に同情すべき理由は十分あらう 。併し是から大に活躍しやうと云ふ壮年時代を最後として逝去られたのは、惜しみても 余りある次第である。
 
 私が最後にお目にかゝッたのは去、明治四十一年の夏花輪へ帰ッて、月居、大里(周 )二兄と図り、下の小学校で二日間『学生講演会』を催した時、大里医学士と佐藤様を 賛助に仰いだ時で、其の日は、町会か何かで忙はしいのを、態々講演会に参会して、吾 々の事業に賛同の意を表されたのであった。 (十二月十七日記)

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