鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△佐藤良太郎君追悼記
(二)佐藤さんの印象   小田島徳藏
 私は国に居た時分、少年達の集まッた席上で「学生と健康」と云ふ様にことに就て話 した序に、こんな事を述べた事がある。『花輪からも東京に遊学した人は随分あるが、 成功所か満足に志した学校を卒業した人は、何人もない、其の原因はいろいろあるが、 十の七八迄は、病気にかゝッて、廃学の止むを得ざるに至ッたのてある、又満足に卒業 した人達も、大概一度や二度病気をやッて、国元の親達に心配を掛けなかッた人はめッ たにない、只一人私の知ッて居る所では、佐藤良太郎さんのみは、長い学校時代に一度 もこんなことがなかッた、佐藤さんも少さな時は、蒲柳の質で極く弱い人だッたが、い ろんな運動や克己的の養生法によッて、今の丈夫な身体に鍛へ上げられたと云ふことで ある、諸君も大に佐藤さんに学ぶ所があッてほしい』と全く私は佐藤さんの病気と云 ふことを聞たことがなかッた。
 
 私は、運動シャツに緊ッた身体を包んで、竹竿をついて飛燕の如く空中に身を翻した 運動場裏の佐藤さんを直に思ひ浮べることが出来る。又恰好よく脚絆を着けた細い脚を 小マメに動かして、一行の先に立つ、歩けば直ぐ腹が減ると云ッて、行く先々の休憩所 で誰よりも多く食物をとッた旅行中の佐藤さんも思ひ浮べることが出来る、尚又何かと 云ふ室内運動の器械を柱に繋付て、家の内でさへ激しく上肢を動かして居る佐藤さんの 姿も思ひ浮べることが出来る、しかし何ふ想像して見ても、病床の佐藤さん、瀕死の佐藤 さんは考へ得られないのである、最後まで佐藤さんを看護した田村酒造三君からもこん なことを聞いた、『良太郎さんは、生涯一度も病気といふものをしたことがなかッた為 であらう、病が重ッて今死ぬまでも「死」と云ふことを考へて居なかッたらしく見えた 』と、全く佐藤さんは御当人のみならず、他人からも「死」だの「病気」だのと云ふ不 景気なことは、思ひ得られない人であッた、頭の中をどんなに探して見ても、佐藤さん の象徴は総て「健康」である、「快活」である、「静止」とか、「沈鬱」と云ふ文字さ へ、佐藤さんの印象から取り出すに困難を感ずるのである。
 
 年譜によると佐藤さんは、明治卅八年早稲田を卒業して帰郷してから死なれるまで、 数年間郷里に於て町会議員だの、軍人団長だの、木通菱の社長だの、イロンなことに立 つさはれたのである、しかしそんな方面に一向関係のなかッた私は、郷里に於ける佐藤 さんとしては、アノ景気のいゝ庭を前にして、座敷に坐ッた中小路の旦那さんたる佐 藤さんを除いては、小学校の同窓会に於ける佐藤さん、鹿友会夏季大会に於ける佐藤さ んの他にはあまり多く知る所がない。
 喝采につれて同窓会の演壇にニコヤカに顕はれたる佐藤さんの、瀟洒たる風采と軽快 なる東京弁とは、先づ聴衆の真理を魅し去るを常とした、某所で稲取村の話もされた、 大江山の話も聞いた、甲と乙と相譲らざる争論の間に立ッて、巧妙なる折衷説を提供す る愛嬌ある態度をも屡々示された、実に佐藤さんは、完全に其の資格を具備した仲裁者 の人格であッた。
 
 鹿友会の夏季大会が中小路のお宅に開かれたは、私の知ッて居る限り、二度ばかりあ ッたと思ふ、其の際の八方に献酬して老幼次第に準じて、少も凝滞することなき鮮やか なる主人振は、あのツラツラした気持よき板敷の座敷や、明媚なる庭先の景色や、まめ まめしき母堂のお取りなしや、接待役として佐藤廉助氏の興味ある警句や、同榮吉氏の 滑稽なる挙動やと相待ッて、如何に渾然とした快美の感に来客を酔はしめたか、私等は 又佐藤さんに率られて大会の開かれる度毎、小坂にも毛馬内にも大湯にも出掛けたので あッた、而して到る所、佐藤さんは外向的手腕を充分発揮して、其の土地の賛成員故老 と云ふ様な人達と応対し、出来得る丈け若い会員を楽ましむ可く尽力さるゝのが常であ ッた。
 
 三十九年の冬頃、小学校の若い先生達が発起して英語の講習会を開いたことがあッた 、佐藤さんは寒い夜々厚い毛皮のついた外套を来てやッて来られて、講師の任に当られ たが、円転滑脱、時々滑稽洒落を交へて愉快にして周到なる講義振りは、如何に幼稚な る生徒も倦ましむることがなかッた。
 
 盛輸馬車が初めて開通した時、櫻山に催された其の祝宴に列す可く盛岡から市長代理 を初め、株主連が大勢やッて来た時のことである。花輪の豪商紳士と云ッた様な連中も 皆集まッたのであったが、後ればせに場に這入ッて来た佐藤さんの羽織袴の礼装に、恰 好のいゝ山高を戴き、細身のステッキを杖いた閑雅な風姿が衆に抜出て見られた、鷹揚 にして抜目のない態度、流暢にして純東京のアクセントを伝へた弁舌は、場数を踏んだ 他所の人達に対しても、少しの引を取る様なものではなかッた、何となく一種の敵愾心 を持て、向ふの人達を眺めて居た私は、甚だ心強く感じた、而して何がなし『此の町に此 の人なかるべからず』と思ッた。
 
 佐藤さんは、少い時から大変聡明な人として多大の希望を以て、郷里の故老達から期 待されて居ッた、学校を卒へて郷里に帰るや、彼方からも此方からもいろんな役目が降 るが如く、君の双肩に懸ることになッたのも、人才の多くない郷里のこととで、蓋し止 むを得ない情勢でもあッたのであらう、遂に佐藤さんは政治家の一群に擁せられて、県 会議員の候補に立つことになッた、しかし其結果は失敗であッた、『未だ時期が早かっ やた』、多くの批評はこう云ふことに一致して居た、其の後木通菱会社の社長として、無 報酬で其職をつとめ、所持の家屋を工場に貸し、自ら関西地方に出張して販路を計るな ど、極力精励された様子だッたが、部下其の人を得なかッた故か、成績は思ッた程挙ら なかッたらしい、其の時分、私は東京に来て、なれぬ商売に手を焼いて居たので、『流 石の才人も無経験の事はやッぱり巧く行かぬと見へる、貴ぶ可きは経験である』、つく つくと感じたことがあッた、
 一昨年から女森に家を移されて、専心葡萄栽培をやられて居ると聞いて、父君が郡の 唯一の物産たる林檎の最初の栽培者として、其の範を示されたるが如く、最初の葡萄培 養家として大に成功されんひとを祈ッて居ッたのであッた、が天は此の才人に何事をも 為す可き年を借さなかッた、噫。
 
 之も果敢なき思出の一つとなッた、静子夫人の初めて花輪に来られた時分……夫は丁 度盂蘭盆の頃であッた、阿母様につれられて墓参さるゝ夫人の東京風の水色の長い袂… …夫れ丈でも町の若い女達の間に好話柄を提供するに充分であッた、間もなく私等は学 校の同好会に於て、夫人の包丁よりなる珍しきお菓子を頂戴するの機会に接した、会の 前々日であッたか、佐藤さんが夫人の手を下して見本的に作られたお菓子のいろいろを 持て来て、私等役員の一群に分ち与へられた、夫は「岩おこし」や「渦巻」とは全く異 なる珍奇なる味のするものであッた、頬張ッた連中は、何れも喉を鳴して美味々々と絶 叫した、そして衆口一致、同窓会のお菓子は夫人の御骨折を願ふことを懇願に及んだ、 次の日から速成の御菓子製造所たる学校の控所には、夫人を中心として白い「エプロン 」を掛けた若い女の人達が縦横に入り乱れた、好奇の眼を輝してのぞきに来る年寄達 もあッた。
 
 どんなに女子大学を卒業して、草深い田舎に天降られた夫人が、所の若い女性の間に 憧憬の的となッたらう……噫、其の夫人も今は不幸なる未亡人となられた。
 
 遺業の葡萄は、今や累々として熟し初め、花園の花は色香をきそひて咲きにほひ、凡 て一木一草も皆これかたみと相見え、農園の朝夕は徒に故人を忍ばせ申候、八十に近き 老母と二人の幼児に近く産るべき胎児とを守りて淋しくも相暮し居候
 
と云ふお手紙を、佐藤さんの写真の添へて頂戴した自分は、今更に暗然たらざるを得な かッた。

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