鹿友会誌(抄)
「第十五冊」
 
△佐藤良太郎君追悼記
(三)悲しき日   とく子
 二三人の人が目を覚して、重い瞼をこすりながら、近い谷合から流れて来る裏の小川 で行水を便ッたのは、上から圧へつけられるやうな重苦しい夜があけて、漸く空が白ら 白らとなッた頃であッた。  四月とは云へまだ春浅い東山の山々から吹き下して来る朝風は、此の日に限ッてひと しほ見に沁みる、空はどちらかと云へば灰色にどんよりと曇ッて居ッた。
 
 連日の看病と寝不足とに疲れ切ッて、先きに外へ出た二三の人をのぞいての他は、 皆前後も知らずにねむッて居る人が多いので、家の中は至ッて静かである。
 突然二階の病室から、何か非常に迫ッた物言をする声が洩れた、若しや……と思ッた ら、胸がどきどきし出した。
 「ちょと、お医者様はまだか、誰かまた走らして下さい、それから丹後の兄さんにお 早く……」、
と云ふ静子夫人の声が少し震へて居ッた。
 
 忍び足に、はしご段を登ッてゆく人たちと一緒になッていッて見た時は、最早やたゞ ならぬ時期が切迫して居ッたのであッた。
 「水を早く……唇を濡してあげたらよう御座います」
と後の方からさしづをする人もある。
 「一寸先きまで何んでもありませんでしたよ、(かなりやの声がいゝ声だ……)など ゝお仰言ッた位ですもの、ですから私、皆が葡萄園についてお話を伺ひたいと云ってゐ ますが、お話が出来ますか、ときいたら、(出来る…)とお仰言ひましたよ」
と、独り言のやうに云ひながら、夫人は凝ッとその面を見守ッて居る。
 
 「佐藤君!佐藤君!……しっかりし給へ、葡萄の事について、何か云っておく事はな いか……」
と高い、然かも力のこもッた声で繰りかへし呼んだのは、丹後の岩田さんであッた。
 
 病人の容態は漸次険悪に進んでゆくばかりである、それときいて、急ぎ集ッて来た一 家親族、何れ皆眉を顰めながら、患者の面の上にその瞳を凝して居る。
 水を打ったやうな室内の静寂を破るものは、只不規則に吐く重苦しさうな病人の太息 と、小さな置時計の音のみである。
 やがて大里医師が見えられた、然し分一分と迫ッてゆく呼吸を限りある人間の力では 、どうする事も出来なかッた。
 
 「良雄!高い声で父さんと呼んで御らん」
と促されて、
「父さん」
と辛うじて云ッた。
 「もッと高く、もう父さんに御目にかゝれないだよ」
と云ふ母親の言に、思ひ切って大きな声で、
 「父さん!」
と叫んだ。
 
 此の声に呼びかへされてか、今まで固く閉ぢて居ッた両眼をばッちりと開いた、実に 之れは此の世に対する最後の別れであッたのである。
 爪の根が紫色になッた手を固く握ッて居ッた夫人の悲嘆は、実に見るにしのびなかッ た。
 次第に弱くなッて、今や最後の一息が正に絶えなんとした時には、早やあちこちから 、むせび泣きの声がもれて来た。
 
 『一昨日の晩でしたか「お父さんに逢ッてお話をした夢を見た」とお仰言ッていらし たから、きッとお父様がおむかへにいらしたでせう、お父様や、お母様のお側にいらし てゆッくりと沢山お話遊ばせ……』 と、涙ながらに水をあげた夫人のこの言葉に動かされて、今更のやうに声を立てゝ皆が 泣いた。
 
 旦那様のためならば、たとへ火の中水の中でもと云ふ意気込みで、病人の飲む牛乳や 、葡萄酒を冷すための氷を、とるに山の二つも三つも越えていッて、まだ谷合に残ッて ゐる春の雪を得ては、平気でかへッて来た、邸の若者等も、せめて最後の俤を一目見や うとして、水をあげに来ては、医師のやうな握りこぶしを以て熱い涙を拭ッてゆく。
 「若しも代ることの出来るものなら、たッた今でも代るものを……」 と、泣いて居るお婆さんもあった。
 中には、宗家を思ふあまり、それからそれへと手をまはし、人をまはして、どこそこ の八幡様、あそこの不動様といふ風に志願をかけては、毎晩御燈明をあげた女もあッた が、今は万事休した。
 
 一日も早く快くなるやうにと、かげながら心に念じて台所に働いて、婢共も皆目の辺 りを赤くして、何かひそひそとさゝやき合ッて居る。
 このやうにして家内の中は、皆涙で湿ッぽく感ぜられたが、漸くにして、各々が我れ にかへり、次の準備に取りかゝらうとする頃から、空が益々曇ッて来て、果は細い暗い 雨が、いかにも物哀れにふり出したのであった。
「想起す故人十三氏」  「佐藤良太郎氏の思ひ出」

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