GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

伊藤良三

 長く町長として郷土に尽くした。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 初代十和田町長で郷土史家 −
 伊藤良三は明治十六年一月二十日、文七の長男として生まれた。幼児から英才で、小学校卒業の際は 郡長から「神皇正統記」を賞与された。秋田師範は病気のため中退し、東京の哲学館(東洋大学の前身) は学資が続かないので退学した。その後文部省雇になったり帝国学士院雇になって諸博士と交わった。 明治四十年帰郷して毛馬内小学校の代用教員をつとめながら、文部省の中等教員の検定試験で倫理科の 資格を得たので八戸中学校教諭となった。当時の教え子に松下正寿、三浦農林大臣、山崎青森県知事がいる。 大正七年毛馬内小学校長に任ぜられたが、まもなく佐沼中学校、宮城県立第一高女、弘前高女の教諭を 歴任した。また恩師和田喜八郎の懇請により秋田県師範に勤め、昭和六年秋田県立盲唖学校長となったが 在職二年で帰郷した。
 
 昭和九年満場一致で毛馬内町長に当選し、当時町政紊乱のあと仕末をした。時に五十二歳、その後五選 して在職十二年に及ぶ町政を担当した。昭和三十年五月には、毛馬内、錦木、山根の町村合併を敢行し、 初代十和田町長に就任した。ついで三十一年十一月には、十和田町、大湯町が合併となり、新たに初代 十和田町長に当選し、現在の新庁舎を建設して三十四年八月有終の美を以て辞任した。
 
 晩年は専ら郷土資料の蒐集とその編述につとめ、高い史眼をもって旧藩時代から明治時代をまとめられた のは偉とすべきだ。その著述の主なるものは、熊谷助右ヱ門の時勢論解説、郷土人物読本、必勝愛国読本、 毛馬内郷土史稿、郷土資料シリーズ明治時代の部、同旧藩時代の部などである。
 
 昭和三十九年四月十日脳溢血にかかり、四月十六日輝かしい生涯を閉じた。享年八十二。法名は、
  政教院確心慈郷善居士
 昭和四十二年八月「毛馬内小中学校同窓会誌」に「遺賢顕彰特集」を発行し、伊藤為憲と共に建碑 してその遺徳を顕彰した。

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