「鹿角縁記」を著した。 参考(出典):「鹿角市史」
明和四年〜天保十年。 伊藤為憲は毛馬内桜庭家の家臣の家に生まれ、三十歳のときに江戸へ出た。鹿角人と して初めて江戸に出て折衷学を修め、学問の道で大成した人である。 故郷を偲び、広い知識のもとに鹿角の山河・名勝・伝承などを考証して、郷土史として まとめたものが『鹿角縁記』である。これは天保七年から九年にわたって記述されたも のである。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 鹿角郷土史の先駆者 − 伊藤宗兵衛は為憲と号し、明和四年(1767年)毛馬内古町伊藤喜三右ヱ門の三男として生れた。 貧乏士族の子であり、三男坊であったが、幼児か神童といわれ、長じて学問に志したがよい師匠が いないので、寛政八年正月三十歳のとき江戸に脱走した。初め旗本の花房氏や鵜殿視に仕えたが、 思うような勉強ができなかったので、竹本氏の家庭教師となった。竹本氏が長崎奉行となったので、 公用人にあげられ、これに従って長崎に赴いた。当時長崎奉行たるものはみな富んだので、為憲もまた 学問もできるしかつ生活も豊かになった。 晩年は江戸にあって、学問一途に一生を終った。子が一人いて為善といったが二十四歳が若死した。 為憲の江戸生活のもようは知るよしもないが、文政十年為憲六十歳のとき、内藤官蔵(湖南の曽祖父) のもたらした、狭布の細布と錦木塚縁記が奇縁となって、かの有名な「鹿角縁記」を書いて、生家の 伊藤家に届けられた。この縁記は鹿角郡内の名勝、旧跡、山川の形勢をもらさず、また郡内の人物の 来歴などに及び、郷土史の先駆をなしたものである。横手の深沢多市は「秋田叢書」第八巻にこれを 収めた。大町桂月は、この書を読んで「まれに見る多識の人」だと激賞した名著である。 また天保九年高橋亘あての書状は七十歳のものであるが、そのあとの消息は不明である。 江戸における為憲の師は、山本北山である。北山は折衷学派に属する名儒で、佐竹義和の師でもある。 折衷学派は、当時の幕府の官学である朱子学に反対した新しい学問であった。すなわち漢、唐、宋、明 の学者の説を取捨折衷したもので、考証学に詳しく、博学の人が多かった。北山の門人には、 朝川善庵、泉沢履斎がいる。もともと毛馬内は鹿角教学の中心地で、その衷心人物は実に為憲で、 昭和四十二年は生誕二百年に当たったので同窓会で記念の建碑をしたのである。
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