GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

泉沢履斎:泉澤履齋・泉澤牧太・泉沢牧太・充・始

 名は充、字は始達、履齋と号す、泉澤和右衛門の二男。

参考(出典):「鹿角のあゆみ」
 
 通称牧太 安永七年毛馬内に生れた。二十六才の時、叔父伊藤為憲を頼って江戸へ出、 朝川善庵の学僕となった。刻苦三年の後塾生の列に加わることを得、次第に学業が進歩 した。文化十三年、清国人邱有斌という者が水戸浦に漂泊したので、幕府は朝川善庵に 命じて応接させようとした。善庵は「是は臣の門人、泉沢牧太で事足りるでしょう」と 答えた。
 そこで、履斎が、有斌を海路長崎港に護送し、清国定期船が来るのを待って之に乗せて 送還した。首尾よく使命を果たして復命した彼に対し、幕府は恩賞を下賜して労を ねぎらったので、泉沢履斎の名は天下になりひびいた。
 その後禄百五十石を以て伊勢国亀山藩主石川侯の儒臣となったが、天宝八年南部藩 世子信侯(のぶとも、後の第三九世利義)が弟子の礼を執って迎えたので、初めて江戸の 公邸に入って経書を講じた。翌天保九年、盛岡城中において、藩士に聖経を講義した後、 郷里毛馬内に帰省したが、その道中は大名行列のように美しく晴れがましいものであった と伝えられている。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
− 折衷学派の名儒 −
 泉沢牧太は履斎と号し、安永七年(1778年)泉沢和エ門の次男として生まれた。母は 伊藤為憲の姉である。若くして学に志したが師友が乏しいので、叔父為憲が江戸に いるのをたよって脱走した。叔父の世話で朝川善庵の学僕となり、日中はもっぱら炊事、 せんたく、主人の雑用に服し、夜間を勉学にあてた。そして徹夜することもしばしばであった。 善庵はその志に感じ、三年で始めて塾生の列に加えた。その精励により学業が大いに進んで 塾頭にまで昇格した。
 
 文化十三年清国人邱有斌が水戸浦に漂着したので、幕府は朝川善庵に命じてこれを応接させようとしたが、 善庵は「これは門人の泉沢牧太でたりることだ」と推選したので、牧太は水戸浦に至り、 邱を海路長崎港に護送してその任を果した。幕府は、大いにこれを推賞したので牧太の名が 天下に知られるようになった。まもなく伊勢の亀山藩儒となり禄百五十石(現在の年俸三百万円) を賜わった。また南部藩世子信侯(のぶもと)も弟子の礼をとり江戸藩邸で経書を聴講した。
 
 また、履斎は天保九年信侯の帰藩のお伴をして盛岡着城の後、城中で経書を講じたが、 この「御前講釈」には、世子信侯が臨席して行なわれ、南部一門から家老、諸役人、諸士、 諸医、徒士(かち)組に至るまで約三時間にわたる大規模な公開講義であったと「南部家覚書」 に記されている。このついでに錦を着て毛馬内に帰り、兄織太の宅に滞在すること十数日に 及んだ。この間親類、友人の歓迎ものすごく、或いは教えを乞うもの引きも切らぬ有様であった。
 
 江戸に帰ってからも教学につとめたが、安政二年七月江戸の大地震に傷つき、十月七十七歳で 没した。著書には「真山民詩集」善庵随筆二巻がある。昭和四十二年は履斎の生誕百九十年に 当たるので、同窓会では記念事業として建碑してその学徳をしのんだ。

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