鹿友会誌(抄)
「第二冊」
 
△先輩紀伝
 鹿友会誌に、郷里先輩の紀伝を掲け、後進奨学の資とせんとて、幹事諸子、余に記せ んことを求む
 鹿角は、文教晩く開け、偉人傑士の言行録存せる者殆んと之れ無し、故に其の詳悉な るか若きは、得て識るべからず、因て聊か臆に存する所を録して、姑らく泉澤、伊藤、 青山三氏の事を記す。
 其の他の人は、仍ほ号を遂て更に紀することあるべし。
   巳丑十一月   十灣 内藤調一識
 
○泉澤牧太翁
 名は充、字は始達、履齋と号す、泉澤和右衛門の二男にして、母は伊藤氏、長して別 家泉澤清作の養子となり、家貧にして養母の命に応し、平生繰糸を職とし、家計を補 ふと云、
 弱冠発憤学に志し、師友に乏しきを憂へ、脱走して、叔父伊藤惣兵衛か江戸に在るに 依り、惣兵衛の周旋を以て朝川善庵翁の学僕となり、焚炊の賎役をも厭はす、日中は主 の務に服し、夜間を以て講学の時とす、
 冬時祁寒と雖も布衾一領背を蔽ふのみ、徹夜眠らすして書を読み、如斯する事三年、 善庵翁、其篤志に感し、始て塾生の列に加へ、且之に教るの渥、他に異ると云ふ
 
 牧太翁、固と性便に非すと雖も、雅に言ふ、人一能之巳千之と其励精人に超ゆ、故を 以て数年ならずして学、大に進む
 
 文化丙子歳、清国人邱有斌、水戸浦に漂泊し、官、朝川翁(即善庵翁)に命して応接 せしむ、鼎對曰く、臣か門人泉澤牧太にして足ると、蓋し朝川翁の意、是を以て牧太 翁を世に顕はさんと欲するにあり、官、更に牧太に命して水戸浦に遣り、邱有斌を海 路長崎港に護送し、清国定時航海船の到るを待て、之に附載せしむ
 事了り牧太翁、陸路帰り復命し、且其船中及長崎滞在中の筆談書、或は贈答の詩文等 を呈す、
 官、物を賜ふて之を賞す、是に於て牧太の名、天下に喧し、無幾勢州亀山藩主主殿頭 石川總安侯の聘に応し、其儒臣となり、録百五十石を食し、闔藩を督学し、士大夫大に 風に向ふ
 
 又南部藩世子信侯侯弟子の礼を執り、之を迎ふ、時々其江戸邸に入て、経を講し、天 保戊戌年信侯、侯国に就くに及で、牧太翁を伴ひ下り、用人の資格を以て鹵簿中に置き 、盛岡城中、大に聖経を講し、闔藩士人をして之を聴かしむ、
 因りて暫く閑を請ふを、郷里毛馬内に至り、兄識太の家に留る
 
 所謂錦衣還故郷もの親戚故旧日夜相迎て、之を饗し、或は教を請ふもの数ふるに遑あ らす、数月にして復た江戸下谷邸舎に帰り、教を布く事益々広し、
 安政二年七月江戸地大震ふ、屋崩る、誤て脚を傷く、十月に至り、傷益劇し、以て没 す、七十七。謚して創業院周道履齋居士と曰ふ
 
 終に臨み子喜三治に命し、筆研を呼ひ書して曰く、抑不愧於天俯不耻於人笑、而入地 耳と、翁為人謹厚忠実人に接する、温恭事を処する、都を忠恕の二字を失はす、故に人の之 を嘉ふ事、親の如し、
 中年眞山民詩集を発刊す、山民は宗末の遺民有為の才を以て世を避る人なり、故に天下、之を称誦す
 
 翁、初め江戸に入るより、誓て終生演劇相撲等の遊技を視すと云ふ、
 翁、人の書翰を贈るあれば、其返書封皮に必ず其来る書簡の封皮を翻し用ゆ、 其意其来簡を忽にせさるを示すにありと、当時書翰を封するに、袋を用るは失礼と称し、 対等以上には必ず全紙を用ひて封せしものなり

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