48 稲についた白い虫(花輪)
 
                 参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角のむかしっこ」
 
 昔、あったのです。
 日本国中に大飢渇オオケカチが続いていたときでした。
 春の初めから降り出したしゃっこい(冷たい)雨が、来る日も来る日もびしょびしょ、
びしょびしょ降って、なかなか止みませんでした。四月も降り止まないで五月へ入って
も相変わらず降り続きました。
 百姓達は、少しの晴れ間を見て、田畑を耕したり種蒔きをしながら、作物が実るよう
に祈っていました。しかし、毎日の雨降りで、稲の苗っこも、畑のものも、何時イツもの
半分も伸びませんでした。
 人々は「よい世の中にして下さい」と、一所懸命神様を拝んだけれども、雨降りは続
きました。家の中では、炬燵コタツを掛けたり、囲炉裏イロリに火を燃やしたりして、毎日毎
日濡れた着物を乾かしていました、そして、人々達は、
「なんぼ何でも、六月になったら止めるだろうな」
「うんだ、うんだ。去年だって、春から夏まで降ったのであったし、天の神様だって、
いい加減に飽きただろう」
と、気休めなどを言い合ったりしていました。中には、
「おれは、また今年もこのまま降るのであれば、何も食う物がなくなるな。去年だって
旦那(地主)さんに面倒を見て貰モラって、漸く冬を越せたのであるけれども、今年だと、
良いかと思って、そればかり願っていたのになあ」
と、溜息タメイキを吐ツく人達もありました。
 
 玉内の奥の山田や浦志内ウラシナイ、花輪の柏木森カシワギモリや大久保岱オクボタイ、また三倉山
ミクラヤマまでも、薇ゼンマイや蕨ワラビなど、食べられる限りの草の葉、木の芽、木の皮を冷た
い雨の中を人々達は採りに出掛けました。
 ところが、六月に入っても雨は止まず、寧ムシろ大雨になったりして、川と云う川に水
が溢アフれ、橋は流され、低い処の田圃はみんな水こを被カブってしまいました。
 人々は雨のことを呪ノロい、自分達の不幸を悲しみ、嘆いていました。
 その年はとうとう八月の土用中ドヨウチュウでも綿入れを着て、囲炉裏に火を焚タいて当た
らねばならない程寒かったそうです。
 人々は空腹スキッパラを抱えて、食べ物を探して歩きました。体の弱い人などは歩く途中
で倒れてしまい、中にはそれっきり起き上がる力もなく死んでしまう人もありました。
また、乞食ホエドになって、あっち、こっちを流れて歩く人もいっぱい出張デハりました。
 
 幾らた蓄えのあった町の人達が、毎朝大戸オオドを開けると、必ず何人かの人達が餓死
ガシして、其処ソコの家の戸口の前で斃タオれていました。
 お寺やお宮では、干し菜ホシナをいっぱい混ぜたお粥カエを炊いて、お腹の減っている人達
に食べさせました。また、地主ジヌシや金持ちの旦那衆達も、米倉を開けてお粥を炊いて、
食べ物がなくて困っている人達へ配って食べさせて上げました。
 だけれども、中には倉に米がいっぱい入っているのに、米の値段ネダンの上がるのを待
って、倉から米を出さない欲張りの商人アキンドも居ました。腹を空かして居た百姓達は、
「あの倉の米は俺達の物だ。俺達が稼いで取った米だ。このままなら、皆死んでしまう。
あの倉の米を盗トって食おう。さあ、行こう」
と言いながら、欲張り商人の家の倉に押し掛け、米倉を破って、米を持ち出し、みんな
で少しずつ分け合いました。しかし、この倉破りの先立ちをした人達は、重い咎トガめを
受けて、殺されてしまいました。
 
 そのうちに、益々死人が増え、道端や舟場フナバの橋の上に死骸が幾つも横たわったり、
新田町シンデンマチの林こなどにも、死人の山が出来た程でした。この死人の中には、岩手の
田山タヤマや兄畑アニハタの方からやって来た人も居ました。
 十一、二才の子供や赤ん坊を懐フトコロに入れたまま、倒れてしまった女の人達も居まし
た。花輪の人達はこれを見て葬って上げたいと思っても、自分達も、粥を啜ススってやっ
と生きていて、力こも出ないし、明日アシタは自分も死んでしまうかと思いながら、ボンヤ
リと見ているだけでした。
 その年も暮れて冬が過ぎて、春が来たけれども、また、同じ様に雨降りが続きました。
 でも去年よりは、晴れ間もあって、今年は幾らか米の取れそうな気配ケハイが見えて来ま
した。人々達は、
「ああ、今年は幾らか米こが取れるのではないだろうか」
と言いながら、毎日田圃を見て回って歩きました。
 長雨と寒さで、ひ弱に伸びている稲の穂こは、僅か膨フクれて来たのが見えて来たので、
朝早く田圃を見に行くのが楽しくなりました。
 
 ところが、ある朝のことでした。何処ドコから集まって来たのだろうか、勘定カンジョウ出
来ない程いっぱいの白い虫が、やっと膨らみかけた稲の穂っこにしがみ付いていて、稲
の汁ツユを啜ススっていました。
 それを見て、百姓の人達や、町の人達もびっくりし、慌アワててしまいました。今まで
聞いたことも、見たことも無い稲の虫でした。これなら、今年も米こが取れなくなって、
飯ママが食えなくなると思いました。
 そこで、みんな集まって「どうしたら良いだろうか」と相談を始めました。その時、
「これは、きっとお腹を減らして、道端で死んだ人達の霊タマシが虫こになって取り付いた
のであるかも知れない」
と誰か言った人が居ました。そこで、町はずれの林この中に、死んで倒れた人達の霊を
弔トムラうことにしました。
 
 それから、みんなが集まって、あつちこっちにあった死んだ人の亡骸ナキガラを集めて来
て、荼毘ダミこをし、までこに(丁寧に)葬った後に、石の地蔵さんを立てました。
 その他虫追いも一所懸命やって、虫こも少なくなり、その年の秋は少しだけ米こが取
れました。
 その時以来、毎年その頃になると、石のお地蔵さんの処に地域の人達が集まって来て、
飢え死ににした人の霊を慰めるため、物を供えたり、拝んだりしました。
 また、虫除けムシヨケのお呪いマジナイをしたりしました。
 こうしたことは、今までずっと続けられているのです。
 どっとはらえ。
 
[詳細探訪「飢饉」考]

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