[詳細探訪「飢饉」考]
〈鹿角を襲った凶作〉
参考:鹿角市発行「鹿角市史」
元禄八年(1695)、宝暦五年(1755)、天明三年(1783)、天保九年(1838)の飢
饉を、盛岡藩の「四大飢饉」と呼んでいる。
〈元禄の大凶作〉
貞享四年(1687)から翌元禄元年にかけては不順な天候が続き、連年不作となった。
この時鹿角にも多くの飢民がでている。
元禄二年から四年まではほぼ平年作であったが、翌五年から又々不順な天候が続き、
同七・八・九年、更に同十二・十三・十四・十五年と毎年のように凶作に見舞われた、中でも
元禄八年と同十五年の飢饉は大惨事になったと云う。
元禄八年九月、大凶作が決定的となったので藩では穀留令コクドメレイを出し、雑穀を含め
て穀物を領外移出を禁止した。 即ち、米、雑穀は一切領外へ出さないこと、また年貢
を金で納めている者は雑穀で代替してよく、雑穀は相場より高値で買上げる。雑穀ばか
りでなく身命の助となるものの貯蔵を心懸けるように、と云うものである。
被害が広がるにつれ領内には不穏の空気が流れ、各地に徒党取締りの役人が派遣され
た。
〈宝暦の大凶作〉
延享・寛延・宝暦にかけては早冷霖雨リンウの天候が続き、領内一円に不作が続いた。宝暦
三年(1753)は天候不順・早冷のため収穫は平年の半分となり、翌四年は上作であったも
のの花輪通で浮塵子ウンカの大発生があり、場所によっては収穫皆無となった。
宝暦五年は春から天候が不順であった。続く出穂期の長雨、早冷で、平年の二分作、
この大飢饉で鹿角には多くの餓死者が出た。
〈天明の大凶作〉
宝暦大凶作の後は小康を得た作柄も、安永年間に入り霖雨・低温のため再び凶作となっ
た。安永九年(1780)鹿角一帯に吸白虫(ウンカのこと)が発生し、凶作となった。
天明年間も不順な気候の連続となった。天明二年(1782)は冷害で作柄が悪く三、四
割の減収となり、翌三年は春から天候不順で霖雨早冷のため大凶作となった。
藩では困窮領民の救済に懸命の努力を払っている。御役金銭・諸郷役・年貢を減免した
り、御救として金銭を与えている。また秋田、酒田、志和などから米を買入れ、救済に
当てている。
〈天保の大凶作〉
文政八年(1825)頃から作柄が崩れ、天保元年(1830)・二年の不作に続いて翌三年に
は更にひどくなった。
鹿角は盆地にあり、比較的山背風ヤマセ(北東風)には強いと云われてきたが、天保四年
(1833)は夏の大雨、大洪水、そして出穂期に北風、西風があり実を結ばず大凶作に見
舞われた。
この大凶作のため多くの餓死者が出、間引、子殺し、私刑など悲惨な事件が相次いだ
と云う。また数件の一揆も起こっている。
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