62 柳田国男と鹿角の民俗
 
                         参考:鹿角市発行「鹿角市史」
 
 日本民俗学の生みの親とも称さるべき柳田国男は、その生涯にわたって鹿角の民俗に
深い関心を示していた。彼は調査のため日本各地に足を運んでいるが、鹿角にも何度か
訪れている。柳田が鹿角の民俗にどのような観点で興味を持ったのかは、重要な問題で
あろう。まず、その関係を年譜にまとめてみる。
 
明8.7.31 兵庫県神東郡田原町辻川に生れる。
明25〜30 旧制第一高等学校在学。一年上級に大里武八郎が在学、大里を通じて鹿角出
     身者の東京会であった鹿友会と関係を持った。
明44   京都に内藤湖南を二回訪問、湖南の父十湾著述の『鹿角志』を読んだものと
     思われる。
大2    鹿角へ来遊し、十和田湖伝説を調査する。(高橋強『十和田湖開拓の恩人・
     和井内貞行翁伝』)
大5.5.28 十和田湖訪問。碇ヶ関より峠を越えて発荷にくだる。これは『マタギの部落
     』『十和田権現の出生』という文章となる。
大15   『雪国の春』発表。(鹿角の女の被物)
昭2.11.2 東京朝日新聞本社における鹿友会秋季例会で「東北研究の意義」と題して講
     演。
昭3    『民謡覚書』発表。(鹿角の童謡三つ)
昭3.9.23 秋田市菅江真澄百年祭に参列、祈念講演をした。終了後、真澄の古跡を尋ね
     て花輪まで来た。
昭4.5.8  鹿角郡下を調査。(「鹿角美人は混血の証拠」鹿角タイムス昭47.2.12)
昭5.9   東北の旅の途中鹿角を訪れ『豆の葉と太陽』の中に、その時の印象を記す。
     (小豆沢・湯瀬を越えた)
昭7(夏) 内田武志が成城に柳田を訪問して『けふのせはのの』を紹介され、これが高
     年菅江真澄研究に没頭する動機となった。
昭8    舳倉島の民俗探訪の記事が縁となり、瀬川清子が柳田に師事するようになる。
昭9    「美しき村」を『豆の葉と太陽』に記述。(湯瀬から県境の才田の村)
昭10.6  十和田など各地の鳥の声を聞く。
昭11.4.10 佐々木彦一郎死去。柳田は「境の人」という追悼文を書く。
昭12.8.30 東北旅行で八月三十日湯瀬ホテルへ一泊。十和田湖を通って五所川原に出る。
昭18.9.15 木曜会で「秋田県鹿角郡の話」をする。
昭19〜20 瀬川清子、石田英一郎など柳田邸訪問(『炭焼日記』)。
昭22   成城高等女学校専攻科で生活史講義、初回だけ柳田で、二回目からは瀬川清
     子にゆずる。
昭28.5.1 大里武八郎『鹿角方言考』に序文を書く。
昭33   『故郷七十年』に大里武八郎のことを書く。
昭37   八十八歳で死去。
 
 柳田が昭和二年十一月二日、東京朝日新聞社における鹿友会秋季例会の席上で講演し
た筆記録が『鹿友会誌』三十号に掲載されている。題は「東北研究の意義」で、筆記者
は佐々木彦一郎である。この講演会は朝日新聞学芸部長をしていた石川六郎(毛馬内出
身・石川達三の叔父)が、同社顧問であった柳田を招いて開いたもので、柳田がいかに
鹿角を理解していたかを明らかにする意味では大切な資料である。
 講演の中では、東北の文化は二つに分かれていることに触れた後に、鹿角は地理的に
興味ある場所だという趣旨で次のように述べている。
 「東北の文化は日本海沿岸と、太平洋沿岸に分かれており、之を出雲の筋と、伊勢の
筋といった者もあります。方言の比較などで判って来る事でありますが、言語の流伝に
も明らかに新旧二つの筋があり、さうして混合しています。日本海沿岸の方は中央に近
く、一番奥の中心になる所が津軽でなく、もっと南の南部(領)の北部であるように思
われます。鹿角は、その地理上の位置から、文化史研究の上に非常に興味があるところ
であります。もし、私に東北で何処か一部を選定して研究せよと時間と費用を与えるな
らば、決して、今晩限りのお世辞ではなく、私は鹿角郡か若しくは気仙郡を選ぶであり
ましょう。」
 このことから柳田が鹿角の文化の特異性を認め、民俗調査に興味を示していたことが
分かる。                             (以下省略)
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