[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈柳田国男ヤナギタクニオ〉
 柳田国男(1875〜1962)は、近代日本における民俗学の創始者である。兵庫県に生ま
れ、東大法科卒、生家は松岡姓で、大学卒業後に柳田家の養子となる。官吏として農商
務省に入り、諸地方の視察に赴いたことが民俗学に関心を寄せるきっかけになった。
 1919年貴族院書記官長を最後に辞任し、以後、主に民間にあって民俗学の研究に専念
した。
 
 柳田が民俗学に至ったのには、農商務省の役人として諸地方の実状に触れることにな
った体験の他に、青年時、文学に関心を示す青年であったことも預かって力があった。
民俗学関係の最初の著作『後狩詞記ノチノカリノコトバノキ』は九州への旅の見聞を土台にして成
ったものであるが、それは日向地方を流布していた狩についての民族語彙の収録を目的
としている。こうした事実そのものに関心を示す態度には、後年の柳田の方法を窺わせ
るものである。その刊行は明治四十二年(1909)で、その後、『遠野物語』『神を助け
た話』『海南小記』『山の人生』『雪国の春』『明治大正史 − 世相篇 − 』『桃太郎
の誕生』『木綿以前の事』『日本の祭』『神道と民俗学』『先祖の話』『山宮考』『島
の人生』『不幸なる芸術』『海上の道』など、数多い著作が書かれることになった。
 
 柳田が民俗の学に関心を持つ根底にあったのは、様々な場所でその生の営みをなし、
そして生涯を静かに終える、わが国の常民への愛着と、そしてその常民の生を真実には
大切にはしない近代日本の近代化のあり方への懐疑と、その二つの心情であった。そこ
で、事柄を理論化せず、なるべく事実に即して柳田の感性が捉えた常民の生活の諸相を
定着する、と云うやり方をとることになった。わが国にはかつて、山の民が居たこと、
わが国の祭りにおけるハレとケのあり方、わが国における祖先崇拝の構造、日本民族の
由来についての仮説などが、柳田の鋭い直観に支えられて、その著書の主題となる。
 
 柳田は自らの学問を新国学と呼んだが、ここに盛り込まれたわが国の学の広がりと深
みは、江戸時代の国学の範囲を遥かに超える域に達している。その代わりに、ここでは
常民の生活は事実として何でも採り上げると云うことになった結果、そこで問題にされ
た事実が歴史的時間軸とどのように照応するのか、と云う点は曖昧なままに残ることに
なった。その点を含めて、柳田の成果をどの観点からどう整序するかと云う課題は、今
後に残されていることになる。
 
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