6103折戸オリトの北畠キタバタケ伝説(大湯)
 
                    参考:鹿角市発行「陸中の国鹿角の伝説」
 
 昔、鹿角を治めていた殿様が三戸サンノヘ(青森県)に居た頃、三戸から鹿角へ来る古い
道を来満道ライマンミチと云いました。この来満道を通って大湯に下りて来る処を折戸と云い
ます。
 この折戸には古い昔に、土を沢山盛り上げて作った古墳コフンと云うものがあって、古墳
の頂上テッペンには太い松の木が一本生えています。
 この古墳には、今(平成四年頃)から六百年も昔の話が残っています。
 
 日本の国が南北朝ナンボクチョウ時代と云う、一つの国の中に天皇が二人居り、国内が戦争
で乱れていた頃がありました。
 その頃南朝ナンチョウの天皇に仕えた北畠親房チカフサと云う、偉い大臣が居りました。その人
は南朝の天皇を日本の天皇にしても良いと思って、一生懸命にがんばった人でした。
 けれども、もう北朝ホクチョウの天皇に見方をする人が沢山居て、南朝の方はどうしても負
けそうでした。
 それから、何十年も日本の国は戦イクサが続いて大騒ぎでした。
 
 その北畠親房から八代目の子供で北畠具教トモノリと云う人が、天正テンショウ四年と云う年
に、戦の上手な織田信長と云う大将に滅ぼされてしまいました。
 その頃、具教の孫の昌教マサノリと云う人は、未だ小さかったので、母や家来達に守られ
て、厳しい敵の追手オッテを逃れて、宇治ウジと云う処や、瀬戸セトと云う処などに隠れて生
き延び、終いには本願寺ホンガンジと云うお寺に隠れて住んでいました。
 また、北畠具教の家来であった井上専正センショウと云う人も、戦で負けた後、隠れ歩いて
顕如上人ケンニョショウニンと云う和尚さんの弟子になり、立派な和尚さんになりました。
 そして、天正十七年と云う年に花輪に来て、専正寺センショウジと云うお寺を建てました。
 専正寺と云うお寺を建てた専正は、主人の子孫の北畠昌教を都から連れて来て、人里
離れた大湯の折戸に迎えて、其処で暮らせるようにしてやりました。
 
 それから北畠昌教は、折戸に住むのだからと言って、折戸氏オリトウジを名乗り、その子
供達も代々折戸に住むようになりました。
 昌教は折戸に住むようになった時、
「子孫は代々折戸氏を名乗ること」
「他家タケの家来になってはいけない」
と云う二つのことを言って死にました。その昌教のお墓として残っているのが、太い大
きな松の木のある古墳です。
 この古墳には、
 
 深山木ミヤマギの紅葉モミジと蔦にかしづかれ 英魂エイコンねむる奥津城オクツキどころ
 
と云う歌が刻まれた石碑が立っていて、この石碑を立てた人は昌教から十六代目に当た
る子孫の折戸昌弘マサヒロと云う人が立てたものです。
 この折戸家の古墳の南側には、今まで折戸に住んでいた人達のお墓があり、そのお墓
の真中程に大きな山桜の木があって、その木は蔦江姫桜ツタエヒメザクラと呼ばれています。
 蔦江姫と云う人は、伊勢の国から昌教を慕って付いて来たお姫さまで、山桜の木は蔦
江姫の墓の徴シルシに植えられた木だと云われています。
 
付言
 折戸氏が住んでいたお城は、長斎館チョウサイダテと云って、今でも折戸に残っています。
 また、来満道と云う三戸から殿様が通った処は、折戸で一休みして水を飲む処でした
ので、「殿ケ井トノガイ」と云って今でも、夏も冬も水が渾々コンコンと湧いている井戸があり
ます。
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