[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈北畠親房キタバタケチカフサ〉
 北畠親房(1293〜1354)は、鎌倉時代末、南北朝時代の貴族・思想家、父は権中納言師
重モロシゲである。北畠家は村上源氏の流れを汲み、代々大覚寺統ダイカクジトウに仕えていた。
 十五歳で家督を継ぎ、十九歳で権中納言、後醍醐天皇に信任されて三十二歳で大納言
となり、皇子世良ヨヨシ親王の養育に当たったが、親王の死と共に出家し、宗玄(後覚空)
と号した。建武新政には直接関与しなかったが、嫡男顕家アキイエが陸奥守に任ぜられ、義
良ノリナガ親王を奉じて赴任するに伴って陸奥ムツ国に下った。
 
 足利尊氏が謀叛ムホンを起こすや、これを追って顕家と共に上洛し、再び国政に参与す
る。尊氏の再挙により敗れ、後醍醐天皇を吉野山に迎えて南朝を開き、北朝に対抗した。
 顕家の戦死後、義良親王を奉じ、二男顕信アキノブを助けて、東国における南朝勢力の再
建を図ろうとしたが、途中海上で暴風に遭って軍勢は四散した。親房は辛うじて常陸ヒタチ
国に着き、小田城、関城に寄って活躍したが、戦いに敗れ、吉野山に帰った。
 この間、関城にあって『神皇正統記ジンノウショウトウキ』の修訂や、『職原抄ショクゲンショウ』を
著した。
 
 吉野山帰還後は、南朝の政治的軍事的指導者として、准大臣に至り、楠木正行マサツラと
共に協力して京都の奪回を図った。一時足利氏の内訌ナイコウに乗じて入京したこともあっ
たが、遂に奪回ならず、賀名生アノウで没した。
 その他の著書に『東家秘伝』『元元集』『二十一社記』『古今集註』などがある。ま
た、
 
 片糸の乱れたる世を手にかけて 苦しきものは我が身なりけり
 身の憂さはさもあらばあれ治まれる 世を見るまでの命ともがな
 
など多くの歌があり、『新葉集』及び『李花集』に採録されている。
 
[神皇正統記]歴史書、六巻
 延元四年・歴応二年(1339)常陸国小田城で執筆成立し、興国四年・康永二年(1343)
関城で修訂された。年少の後村上天皇に献ぜられたとされている。
 「大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき、日神ヒノカミながく統を伝へ給ふ。わが
国のみこのことあり。異朝はそのたぐひなし。この故に神国といふなり」
と云う書き出しは広く知られている。神代から当代に至る歴代天皇の事跡を述べている
が、北朝の天皇は偽帝として認めていない。それ故、後世において南北朝正閏セイジュン論
の嚆矢コウシとして知られた。しかし、親房が「正統」として説いたのは、歴史の基本にか
かわる原理たる皇統の持続と云う原理であった。親房はこれを伊勢神宮の教説を借りつ
つ次のように説明している。皇統の持続は、三種の神器の現前によって示されるように、
天照大神の加護による。同時に、鏡は正直、玉は慈悲、剣は知恵と云ったように、三種
の神器は為政の原理としての徳を象徴している。為政者たる天皇がこれらの徳に反する
とき、皇統の持続が存続たりえなくなることをも、三種の神器は示しているのである。
 
歴代天皇考・神皇正統記
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