0902与五郎石の伝説(水沢)
 
    参考:八幡平地区老人クラブ連合会老人大学学習記録集「八幡平伝承ひろい」
 
 大昔、湯坂の土地に冷害凶作による悲しい話が伝え残されている。この湯坂と云う場
所は、水沢部落の南端に位置し、昔はこの付近にお湯が湧いていたと云うところから、
湯坂の地名が残されている。
 昔は、この土地にも数戸の人家があったと言い伝えられている。場所は相当広い平地
であるが、ただ水が少ないので田圃は少しで、湯坂森の麓から流れる三つの小沢の水を
利用して、水田を作っていた。この三つの小沢の名前は、南側を外由沢、中央を中由沢、
北側の小沢を内由沢と呼んでいる。
 これらの水で、それぞれ五六反歩から七八反歩、全部合わせても三町歩足らずの耕地
であったようである。畑はあったかどうか、これで生活をしていたようである。
 
 この土地に与五郎と云う人の家族も一家を構えて住んでいた。この人の家は、中由沢
の水を利用する所にあり、田や畑もこの付近にあったものと思われる。どれほどの耕地
を所有していたかは分からないが、裕福な暮らしではなかったと思われる。湯坂の住民
ばかりでなく、切留平の人も此処に田圃を所有していたと云われている。現在でも切留
田と呼ばれている場所もあり、深部落の人方も田圃を耕作していた。この辺りでは、狩
猟や川魚釣り等で生活を支えていたようである。
 
 ところが、宝暦の冷害か、天保の頃の大飢饉のことは知られているが、それ以前なの
か判る由もありません。此処も大冷害に襲われ、大騒動であったと伝えられている。湯
坂や水沢部落と云わず、鹿角また東北地方一円の冷害の大凶作が続いたと言い伝えられ
ている。
 一年や二年でなく、七八年も長引く大飢饉で、住民も次から次ぎへと餓死する者が続
出したと云われている。
 しかもこんな山間ヤマアイの住民は、何処からも食糧を補給する術もなく、木の芽、草の
根また雑草など、食べられるものは何でも食べ、飢えが日増しに迫り、どうしようもな
かったと云われている。
 
 与五郎一家もこの冷害を免れることは出来なかった。またこれに加えて与五郎が病魔
に襲われ、床に臥す身になっており、悩みに悩んでいました。
 道を隔てて向こうに大きな石があり、この石のすぐ後ろが崖になっている。この崖は
高さが五十米以上あり、此処から動けない病人を川の淵に突き落とし、往生を遂げさせ
たとされます。
 
 その後、家の向かいにある大きな石の周辺で、夜になるとすすり泣きする声が聞こえ
るようになりました。
 それからこの石は、「与五郎石」と呼ばれるようになりました。石の大きさは畳四帖
敷はある大きな石である。現在この石の上にもう一つ、米俵より一回り大きな石が載っ
ているが、これはこの土地が開田された折、与五郎屋敷跡から移したものと云われてい
る。
 その後打ち続く凶作に殆どの人が餓死したものか、生き残っても何処かへ姿を消した
のか分かりません。また湯坂に住んでいた人も切留平の人も、全員死滅したものと云わ
れている。
 この辺り一帯は昭和初期に開墾され、立派な開田となり屋敷跡は見られないが、与五
郎屋敷とか、前田と呼ばれる土地が残っている。
 
 数十年前、花輪のイタコが坂比平方面を訪れた折、信者の家において、誰も教えた人
も居ないのに、その辺りに大きな石があって、その石の下に黒い人が下敷きになってい
るので、これを供養してやるようにと言われ、それ以来坂比平周辺の人方が毎年供養し
ている。
 与五郎石は、志張温泉ホテルの敷地から下流二百米位のところの崖の上にある。
[詳細探訪「飢饉」考]

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