[鹿角の時は流れ行く]
82 領界紛争
 
〈南部・秋田の紛争解決〉
 慶長十年(1605)に端を発した南部領と、秋田との藩界紛
争については、前述したとおりであるが、慶長十五年(1610
)両方の家老が江戸へ上り、老中へ訴え出たところ、御裁許
があるまでは、論地へ一切手をつけてはならぬと申し渡され
た。
 其の後暫くの間は大きな騒ぎもなく経過したが、慶安二年
(1649)三ツ矢沢、比内沼山(沢尻)に於て再び紛争が起こ
った。
 これは、朴木峠で両藩の侍共が出合ったとき、秋田側は次
のような申し立てをした。
 秋田側訴状(要約)表示
 
 さらに、同日付をもって、大館の斎藤伝助・茂内甚兵衛から
「秋田南部御国境の覚」として三ツ森、深沢、札立場、長木
沢の四ケ所について申し立てをしている。
 
 慶安二年から表面化した紛争は、翌三年南部・秋田双方の役
人、百姓の代表らが江戸へ登って対決裁判に及んだが、その
決着を見ないうちに、将軍家光が死去したので、裁判は中止
となった。
 その後、両藩の百姓および御境拠人コニン(境界巡回の役人)
等が、入り替わり立ち替わり江戸へ上って申し立てをしたが、
解決の途が見あたらぬまま寛文八年(1668)に至った。
 その年の夏、幕府から、論地の絵図を持参せよとの命令が
秋田へ届いた。
 そこで、使者を派遣することになったが、その前日、黒沢
元重(浮木しもいい、郡奉行をも勤め藩主の側近である)が、
義隆(二代藩主)に呼ばれて老中への質問に対する秋田側の
見解を申し渡された。
 その経緯を黒沢浮木の記録によって紹介しよう。
 「黒沢浮木の記録」表示
 
 その後、延宝二年(1674)二月一日、今度は秋田側から南
部側に対して、至急の飛脚便が届いた。
 その申し入れの大要は、比内沼山、鹿角沼山、朴木峠で南
部の者共が境を越えて金を掘っている、ばっかい沢に新田を
開いた、大館境の袈さ掛沢に新田を開いた等、大館の役人か
ら花輪毛馬内の役人宛てに中止するよう申し入れたが、一向
止めないので、幕府へ訴状を出したところ、寺社奉行から、
中止するよう内部へ申し渡すから、私共へ江戸へ来るように
との指示があった。
 との申し入れをしたところ、南部側から之に反論し一歩も
譲らなかった。
 
 そこで、両藩の百姓代表らは、江戸へ上って幕府の裁許を
求めた。
 それから三年目の延宝五年(1677)四月、幕府の検使三人
(設楽市左エ門・中山藤兵衛・設楽源右エ門)が江戸を出発し、
同月十七日から十九日までの三日間は、米代川を挟んで南方
の論地を、また、二十一日から二十七日までの七日間は、北
方の論地を見分して江戸へ帰った。
 六月四日、幕府の評定所で久世大和守から秋田・南部藩境に
対する裁決がおこなわれ、また、境界線に墨引きをした絵図
が双方に下付された。
 
 ここに決定された境界線は、米代川南方地域では南部側の
主張がほぼ認められ、また、北方地域では秋田側の主張が全
面的に認められたのである。
 こうして、七十年間にわたる紛争に漸く決着がつき、その
後、七月二十六日から二十八日まで、下付された墨引き絵図
によって、双方立ち合いの上、境塚十個を築いて、再び紛争
の起こらないよう誓いあった。
 次に、比内・南部境裁許の原文(『国典類抄』第十巻)は
次のとおり。
 「比内・南部境裁許」表示
 参照 「土深井の話」
 参照 [土深井裸参り]
 領界紛争「土深井 − 領界を見守る神様たち」
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