「比内・南部境裁許」
 
   覚
 奥州南部領鹿角郡花輪村毛馬内村と羽州秋田領沢尻村十二処村
味噌内村藤間村別所扇田村大館山境諍論之事裁許申付覚
 
一、米代川より南方はつかい沢境之由秋田領雖申之境之内南部領
古田有之条秋田領申所非分なり南部領よりハとふかひ渡り境之由
申之高梨館外館一館又川原館一屋敷之由秋田領之者雖申之南部領
より二館二屋敷ニ而南部之者住所之由申之候見分之上分明候条南
部領之者理運之事
 
一、金山之内西道本山之義比内沼山之由秋田領より雖申之南部領
より金掘来間府数多在之古来より之金掘小屋并樹木等其上南部之
奉行屋敷古跡并樹木畑等相残至于今金掘候と相見得候其外西道小
松平西道崎之山西道北平西道夏山右之処々南部より金掘候古間府
慥ニ相見之条秋田領申処非分之事
 
一、金山より峯続南境煩悩山冑石迄境之由南部領之者雖申之ふな
の木沢より内一通り沢ニて秋田領大葛金山金掘候者為用事五拾年
来大木伐候伐かふの古跡数多在之其上冑石南部之者近年新規申立
候も無紛相聞候条南部領之所非分也ふなの木坂栗木平馬立場峯通
境慥ニ相見候事
 
一、米代川之北南方大森より下之森楢木菅之沢山神林長木峯通清
水峠迄境之由南部領雖申之下之森の境峯沢にもあらず是又秋田領
新沢村田地之内を引通楢木迄境立候も非分之至也其上南部領より
山銭弐百貫文出之三森上之森下深沢江入小羽杣取ニ付南部百姓与
五右衛門より秋田百姓和泉処江遣候書状弐通有之候間南部領之者
申所旁以不謂候事
 
一、米代川之北東方大森赤沢山松森札立場日暮山水沢頭戸長根袈
裟懸坂沢限り峯通境森清水ケ峠迄境之由秋田領申所分明相見得候
其上先年長木沢之内ニ而比内之者取置候材木毛馬内之者掠取候付
而南部家来桜庭安房より秋田家来渋江内膳所江遣候返状之面秋田
領と相聞候条弥以慥ニ候然とも袈裟懸坂峯通り南部領小坂村新畑
之内峯とも不相見得候所を境引通候義非分先年より南部之者覚候
境分明候事
 
 右此度為御検使設楽市左衛門中山茂兵衛設楽源右衛門被差遣之
見分之上評定面々令相談裁断之米代川南とふかい渡り高梨館之間
より大場平朴木峠大持長根竜ケ森土高場山捨神迄峯続すばり合横
沢立菱山馬立場栗木平ふなの木坂迄限之米代川之北東は大森赤津
山松森札立場日暮山水沢頭戸長根袈裟懸坂限峯通境森清水ケ峠迄
水落峯通山境相立為後鑑絵図之面墨筋引之各加印判絵図壱枚充双
方江下置之間此旨守之永不可違失者也
  延宝五丁巳年六月四日
              (御勘定頭)岡部 角左エ門
                    甲斐 庄喜右エ門
                    徳山 五兵衛
                    松浦 内蔵丞
              (町奉行) 宮崎 若狭
                    嶋田 出雲
                    太田 摂津
                    小笠原 山城
              (御老中) 土屋 但馬
                    久世 大和
                    稲葉 美濃
 右之論所為御検使設楽市左衛門様中山茂兵衛様設楽源右衛門様
延宝五年巳四月十六日彼地江御下着双方論処御見分相済同廿八日
彼地御出足御登被成候御裁許御絵図同年六月四日ニ被下置候当申
ノ年迄拾年ニ罷成候右之御絵図相守候故一切出入無御座候事
 
鹿角の時は流れ行く
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