37 日本人の創った色(紫)
〈紫〉
京都大田神社の境内には、上賀茂神社の御神体とも云うべき、その名も「神山コウヤマ」
と云う山から流れ出た清流が沢を作っており、その一面に紫色の杜若カキツバタが咲き誇っ
ています。この群生は、国の天然記念物に指定されております。
『千載和歌集』の撰者藤原俊成が、神山を訪れたときに次のような歌を詠みました。
神山や大田の沢のかきつはた 深きたのみは色に見ゆらん
『万葉集』の巻十七で大伴家持が次のような歌を詠みました。
かきつはた衣キヌに摺スり付けますらをの 着襲キソひ猟カリする月は来にけり
二千二百年位前、前漢の武帝は五行思想による五色、青赤黄白黒以外の紫を殊更好ん
だと云われています。自分より身分の低い人には、紫を身に着けることを禁じて、皇帝
の色としました。そして、自らの住まいを「紫極シキョク」「紫宸シシン」と称しました。
三千六百年程前、地中海の東海岸、現在のイスラエル、レバノン辺りにフェニキアと
云う古代国家がありました。
地中海から採れるアクキガイ科の貝の内蔵から色素を得て染色しました。貝にはパー
プル腺と呼ばれる黄色の腺があり、敵に攻撃されるときにはそこから液を出して威嚇し
ます。そのパープル腺を布に塗り付けると、初めは黄色ですが、次第に紫へとゆっくり
変化します。二千個の貝から、僅か一グラムの色素を得る、と云う大変高価な紫色でし
た。
地中海沿岸の高貴な人々が競って、赤味の綺麗なこの紫を手に入れようとしました。
地中海を制した皇帝達の衣服は皆、この貝で染めた紫であったと云われています。地中
海沿岸の人々は、王室の子供は紫を着て生まれると云い、紫は即ち皇帝の一族の象徴で
した。
わが国でも「冠位十二階」(前掲)以降、平安時代になっても紫を尊ぶ思想は引き継
がれました。十世紀に成立した律令の施行細則で、宮中の年中行事や制度などが書かれ
た『延喜式』の中にも、「濃紫(深紫)」の染め方が書かれていたり、紫草の名が頻繁
に出てきます。
『万葉集』巻十二には、紫を染める手法に因む次のような歌があります。
紫は灰ハヒさすものぞ海石榴市ツバキチの 八十ヤソの衢チマタに逢へる子や誰タれ
即ち紫の色を出すためには、紫根の染液の媒染剤として、椿の生木を燃やした白い灰
を用いるのです。
『源氏物語』はまことに「紫尽くし」です。
『伊勢物語』四十一段には、「紫のゆかり」の言葉の原点として物語が書かれ、次の
ような歌があります。
むらさきの色こき時はめもはるに 野なる草木ぞわかれざりける
『古今和歌集』には次のような歌が載っています。
紫のひともと故に武蔵野の 草はみながらあはれとぞ見る
武士も紫を尊びました。豊臣秀吉が着用していた胴服(現在京都国立博物館所蔵)は、
辻が花と云う絞染で染められています。この胴服は、南部藩の南部信直が、小田原攻め
をしている秀吉の陣中に馬と鷹を届けさせたとき、その労をねぎらって秀吉が自ら来て
いたものを脱ぎ与えたものと云われています。
その南部藩で紫草が生産されるようになりました。岩手県と秋田県の県境辺りには随
分紫草が栽培され、中世の終わり頃から、紫草で染めた布が特産品となって行きました。
江戸でも紫が流行しました。
例えば武蔵国多摩郡松庵(現在の杉並区松庵辺り)の豪農杉田仙蔵は、自分も紫染め
を始めようとして工房を造りました。
そこでわざわざ南部藩に出向いて、紫草の栽培や染色技術をものにして、江戸で紫染
めを試みたと云います。このようにして、「江戸紫」が生まれて行きました。
藍が最も広く親しまれた代表的な染料であったため、藍の名は染料の総称として用い
られました。「二藍フタアイ」とは、藍と紅花のことです。
紫根染や貝紫染は、何れも単独で紫色を表します。ところが紫色は、赤と青との混色
ですので、紅花の赤と蓼藍の青(西洋では茜と藍)を重ねて紫にします。
赤を濃くして青を薄くすると極めて赤味の紫になるなど、二藍の変化は無限にあるこ
とになります。
[詳細探訪(古来の植物染色「草木染」)]
MI10035栗山家「古代かづの紫根染・茜染資料」
「紫根染」
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