徒然想問

言葉考


△単刀直入
「或る人問う」
 前置きと云うか、挨拶文と云うか、根回しと云うか、それらをを省いて、単刀直
入に、
「腹へった(実は既に正午を過ぎていた)」とか、
「なっとらん(このような仕事の出来具合では、だめだ)」とか、
いきなり言うと、相手の反発を食う。
 
「我は想う」
 予め気心の知れた親子の間柄ならいざ知れず、一応他人同士の間では、単刀直入
的な発言は慎みたいね。
 
「或る人問う」
 青少年では、まだ親子関係の、そのようなしこりが残っているので、単刀直入に
発言する傾向にある。
「ウッソー(嘘!?)」も、「マジッ(真面目!?)」もそうか。
 
「我は想う」
 「ウッソー」も、「マジッ)」も、現実の出来事を逆説的に言うことである。こ
れは、前置き的な言葉を省いた結果としての成語と考えたい。
 つまり、前置きを省くことによって、相手は逆の意味と理解するのである。
 
「或る人問う」
 前置きの例としては、枕詞があるね。例えば、いきなり「親よ」と言うより、
「たらちねの」と言ってから、「親……」と綴ることで、相手がそのことの意味を
解釈する時間的な余裕を与える、と云うことだね。
 
「我は想う」
 日本語の美しさの一つに、そのような前置きがある。
 
「歌枕・歌ことば」
「枕詞」
 
「或る人問う」
 和歌(短歌とも)や俳句などでは、枕詞とか、言葉遊びとかを否定する風潮があ
るが……
 言葉遊びとしては、例えば、「あし」には、足の意味と葦の意味とがある、と云
うことだよ。
 
「我は想う」
 言葉の遊びを否定すると云うことは、作者の見て感じた「(真実の)出来事(有
様なども)」が、言葉遊びをすることで、歪曲されて表現される弊害がある(拙文
になる)と云うことであろう。
 
「或る人問う」
 見て感じた出来事を、素直にと云うか、単刀直入に表現すべき、と云うことだ
ね。
 しかし、人の個性は千差万別である。したがって、出来事は、その千差万別な個
性によって、千差万別に(歪曲されて)表現されると思うのだが……
 
「我は想う」
 ………
「二つの想い」
「人いろいろ」
 
「或る人問う」
 単刀直入に表現せよ、と云うことは、即ち日本語で綴られた和歌を、外国語(こ
の場合はとりあえず英語とする)に翻訳しやすいように、と云う意味だね。
 
「我は想う」
 まあね。
 
「或る人問う」
 聖書の世界では、人は神の前では平等である、平等であるべきである、と云う考
えがある。したがって、前置き的な言葉は必要でない、と云うことか。
 「いただきます」とか、「ご馳走さま」とか、「すみませんが……」とか、「よ
ろしくお願いします」とかも不要と云うことか。
 
「戴きます考」
 
「我は想う」
 大分込み入ってきたが、前置き的な言葉は、わが国では、人と人との関係におい
て、それを円滑にするための潤滑油的な働きを持っている。
 各人はそれぞれ平等の関係にあるとしても、日本語は、常に相手を尊重しあう
(と云うことを欠いてはならない)ことで成立している。
 
「或る人問う」
 前置きと云うか、挨拶文と云うか、根回しと云うか、それらをを省いて、単刀直
入に言うと、傲慢であると受け取られるんだね。
 
「我は想う」
 ………

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