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[鏡考 三] 御霊代たる神鏡は、本殿に厳重に奉安されています。 従って、神鏡は、宮司であってもみだりに拝観出来ないのは、前述でご案内のとおり です。 ところで、多くの神社では、神前に鏡を飾っています。 これらの鏡は、「神鏡」として入手、又は奉納された鏡であると思います。社殿装飾 の一手法として、この鏡を飾っているのでしょう(SYSOPの奉務神社も同様)。 参拝者は、この鏡があたかも御霊代たる「神鏡」であるとの想いを抱いて、参拝して いるのではないかと、自分なりに思っています。 幾分離れているその鏡に映る自分(=参拝者)の姿(=顔)の奥には、神様がいらっ しゃるのです。 そうしますと、その鏡には、自分と神様とが二重に映って見えることにもなります。 そして参拝者は、心を十分に満たされて帰途につきます。 |
[鏡考 四] 一方、よく澄んで明らかな鏡のことを「 そうしますと、真澄の鏡の中には、神様がいらっしゃると想うことが出来ます。 目の前の真澄の鏡を視ることの出来るのは、自分しかいません。 鏡に映った自分の顔の、その奥に神様がいらっしゃることになります。 いつの間にか、自分の顔と神様とが合体してしまったように映ります。 更に推し進めて行きますと、「自分=神」と云うことになりましょう。 そうしますと、自分を救うのは神たる自分であり、自分に幸せをもたらすのは神たる自分である、と云うことになります。 このように考えますと、神様を尊ぶわが日本の神道は、各自各人 − 全ての人々の、かけがえのない生命を守ることの出来得る、究極の思想(=宗教)である、と云うことになりましょう。 [武士道(抜粋)] |