私が『くいーん』と「エリザベス」から離れる理由

99年4月23日、24日、25日付けの日記(銀河の事情)を読んでくださった多くの方々に随分とご心配をおかけしてしまいました。申し訳ありません。このことを直接打ち合けたのは緑川りのさんに対してだけでしたから、インターネットによる情報伝播ってすごいんだなあと呑気なことを考えたりもしました。日記の記述はいささか冷静さを欠いた部分もありますので(日記というものの性質上仕方がない点もありますが)、極力誤解を避けるためにも、この間の事情をわかりやすくまとめてみました。なお当初はもっぱら、『くいーん』114号の女性ホルモン特集に対する批判意見を発表しようと思っていたのですが、それは『くいーん』自体に投稿するのが筋ですから、願わくば次号の『くいーん』のメイルライン(読者の投稿欄)にでも掲載してもらえるよう別に準備することにしました。(1999年5月3日記)
『くいーん』114号の女性ホルモン特集に対する批判意見を5月初旬に『くいーん』のメイルライン(読者の投稿欄)に投稿しました。しかしながら、誌面構成上の都合により6月25日発売の『くいーん』115号には掲載されませんでしたので(編集部としては8月25日発売の116号にまわす意向だったようです)、投稿した原稿を撤回させてもらいました。とは言っても、せっかく準備したものをこのまま捨ててしまうのももったいないので、今回サイト全体の構成を新たにするのに合わせ、その内容も盛り込んで一部を書き直しました。また最後に、現時点での
[回想記]も添えておきました。(1999年9月1日記)

これから述べることの骨子(時間がない方はこの項だけでも読んで下さい)
(1)『くいーん』114号の女性ホルモン特集、特に「女性が語る女装者のホルモン投薬について」を読んで、自分の価値観に安住しそこから一歩も出ずにホルモン投与者を一方的に断罪しようとする内容に憤りを覚え、同時に淋しさを感じた。
(2)『くいーん』という雑誌自体に対して強い不信感を覚えた。
(3)同時に『くいーん』がTV(趣味として女装を楽しむ人)を主たる読者層にしていることを再確認し、TVでは決してない自分がそこに投稿し誌面を占めるのは双方にとって好ましくないと判断した。
(4)『くいーん』とは以後、訣別することに決めた。
(5)それに関連して、『くいーん』と同会社が経営する「エリザベス」の常連客と目されている自分のあり方について点検を加えた。
(6)TVのための遊び場である「エリザベス」に自分が常連客として通うことは、「エリザベス」と自分の両方にとってマイナスだと判断した。
(7)「エリザベス」からは撤退することにした。
(8)それに伴い、論理的整合性を貫徹するためにも、『くいーん』と「エリザベス」以外のすべてのTVのための遊び場からも徐々に離れていく方針を固めた。
(9)しかしながら、『くいーん』はともかく、「エリザベス」に対して反感や悪意を持っているわけではない(むしろ今でも愛着を感じている)ので、自分の今回の決断が反「エリザベス」キャンペーンに利用されることは本意ではない。

『くいーん』114号発売以前のいきさつ
今回の決断の直接的なきっかけは、発売されたばかりのアマチュア女装交際誌『くいーん』114号(1999年6月号)に掲載された女性ホルモン特集(特集タイトルは「女性ホルモン最前線<後編>」)、特に「女性が語る女装者のホルモン投薬について」と題された座談会を読んだことでした。この特集はそのタイトルからも判るように、前号(113号)の「前編」を承けたものです。2号に渡るこの特集については企画の段階で『くいーん』誌の編集長(女性)から相談を受けました。実はそれ以前から編集長とは個人的に、ホルモンについての意見交換を頻繁に行っていました。その際、私の認識では、むしろ私の方が積極的に「女装者が安易に女性ホルモンに手を出す風潮にあるのはまずいのではないか」という意見を述べていたように記憶しています。
とにかく、私は「女装者が安易に女性ホルモンに手を出す風潮に警鐘を鳴らす」という特集の狙いに賛同し、依頼を承けて自分自身のホルモン投与の体験手記を執筆し、これが緑川りのとの往復エッセイという形で『くいーん』113号(1999年4月号)に掲載されたのでした。この時の手記の改訂版が
女性ホルモン体験記(Ver.2.00)」です。
114号(最新号)の後編については、編集長の取材に同行して埼玉医科大学のジェンダークリニックのメンバーでもある内島豊先生(泌尿器科)を勤務先の病院に訪ねた帰りがけ(この取材ではホルモン投与者にとって有益な情報を得られましたが、結局記事にはなりませんでした)、編集長との雑談の際に少し話をしました。そこでは「会社の上司による座談会」(ホルモン常用者はまっ先に解雇対象になりうるという趣旨で)と「女性による座談会」(女性がホルモン常用者をパートナーとして選ぶことはありえないという趣旨で)の案が半ば冗談として話題にあがりました。「会社の上司による座談会」は悪い冗談としても、「女性による座談会」は悪くないと考え、私も賛意を表明しました。後になってその案が実行に移されたことをある人から耳にし、私としてもその内容にはそれなりの興味を持っていました。

『くいーん』114号の女性ホルモン特集のこと
114号発売後まっ先に特集の内容に目を通しました。他にも不快感を覚える記事もありましたが、特に「女性が語る女装者のホルモン投薬について」と題されたその座談会(編集長も参加)の内容には悲しく淋しく悔しい気持ちになりました。そして同時に、激しい憤りを覚えました。当事者ではない人(つまり女性ホルモン投与者ではない人)が自分自身の価値観に安住し、そこから一歩も出ずに言い放ったあれこれ(しかも無自覚に他人を傷つける内容を含む)を何の点検もなくそのまま掲載してしまった編集サイドに対する怒りです。
最初に、ひとつだけ例え話をしておきましょう(必ずしも適切な例え話ではないかもしれませんが)。仮にある日本人が「**人は犬を食べるそうだが、なんて野蛮なんだろう」という発言をしたとします(欧米人の「日本人はくじらを食べるなんて野蛮だ」という発言の例でもよいのですが)。それは自身の食文化における価値観から一歩も出ず(しかもその価値観が相対的なものであることにすら思いも及ばず)、他の文化圏の価値観を理解しようとせずに一方的に言い放っているだけの暴言です。そして、そのような暴言が生まれる背景にあるのは無知と想像力の欠如です。もっとも、身内だけの席でならそういう暴言も(愚かではありますが)ありでしょう。しかしながらそれがパブリックな場での発言だったらどうか。まず間違いなく国際問題に発展するはずです。
今回の座談会の内容は基本的にはこれと同じです。
具体的にひとつ指摘しましょう。
座談会中、女性ホルモン投与者の肉体(主に乳房)に言及している箇所がありました。ここでは一貫してその肉体が美醜という観点からのみ語られています、私が誤読していないとすれば、ここでの論旨は次の通りです。「女性ホルモン投与者は乳房が欲しくてホルモンをやっている。だが、その肉体、特にその乳房は少しも美しくない。しかし当人はそれを美しいと思っている」(実際にはもっと口汚いののしり言葉が使われている)。
けれどもまず、ホルモン投与者の肉体を美しくないと断言する根拠はどこにあるのでしょうか。そして、ホルモン投与者全体のなかで美しくない肉体を持つ者の割合はそんなに大きいのでしょうか。編集長をはじめ座談会出席者たちはそういう断言ができるほど、ホルモン投与者全体について精通していると言うのでしょうか。具体的な根拠を納得できる形で示せるのでしょうか。
確かに私の肉体はぶくぶくと太っていますが、そうではない人たちもたくさん知っています。私は自分自身の経験の範囲内でしかものを言えないことを自覚していますから、太った人もいればそうでない人もいると発言できるだけです。
しかしながらここでの発言でもっと問題なのは、ホルモン投与者自身の気持ち(価値観)が置き去りにされている点です。周りの何人かの投与者に聞いただけでしかありませんが、私を含めその多くは、ホルモンによって作られた自分の肉体を美醜という観点では見ていません。美醜ではなく「心地よさ」の問題なのです。私は少なくとも、自分の肉体がぶくぶくと太っていることを自覚しています。自分自身の美的感覚に照らし合わせても、間違っても美しいと言える部類には入らないと十分にわかっています。しかしながら、私はそれよりもこの肉体の状態が心地よいから、自分の今の肉体を愛しているのです。男性的な肉体を持っていた頃の居心地の悪さ、違和感、不快感を思えば、初めて愛することのできるようになった肉体を持てたことに心底感謝しています。美醜については美しくないよりも美しい方がよいかもしれないと考えているだけです。ホルモン投与者の多くは私と同じような感じを抱いているのではないでしょうか(もちろん推測の域を出ませんけれども)。
ところがこの座談会ではそういうことには一言も触れず(触れる能力もなく)、もっぱら美醜という観点だけからホルモン投与者の肉体を断罪しています。そこにあるのは、美しいことがよいことで美しくないことは悪いことだという単純な図式です。ホルモン投与者の価値観を知ろうともせずに、自分の好みを語っているだけです。
飲み会の席でならそれもよいでしょう。また、オフレコというならそれもよいと思います。ですが、『くいーん』の記事として活字になってしまったのです。無邪気で能天気な発言がホルモン投与者に対する偏見を拡大する可能性など考えもつかなかったのでしょうか。善意の行為であれば何をしてもかまわないというわけにはいきますまい。それに、『くいーん』の読者のなかには(それどころか表紙を飾った者やフォトコンで賞をとった者のなかにも)一定数のホルモン投与者がいることは、編集長自身がよくおわかりになっていたはずです。
思想と言論は無条件に自由です。匿名でもかまいません。匿名発言の場を確保することが思想と言論の自由を守る最大の砦なのですから。しかしながら反論を受けることは覚悟しておくべきです。ホルモン投与者の肉体を「怠慢な肉体」と言い放つなら、それは投与者の側からの次のような反撃を呼び起こします。「では、そういう発言をできるあなたの肉体は怠慢ではないのか。そもそも、あなた自身の拠って立つ立場、セクシュアリティーやジェンダー・アイデンティティー(
用語についてを参照)を明らかにすべきではないか」と。これを先ほどの例に置き換えると、「あなたが生の魚(牛)を食べるのは野蛮ではないのか。あなたの食文化における価値観を説明してほしいと」という反論を受けるのとパラレルです。他者の価値観を自分の価値観だけから判断し断罪するというのはそういうことなのです。
攻撃だけしていても仕方ありませんから、建設的な意見も述べておきましょう。
本当のところは次のように言うべきだったのです。
「女性ホルモン投与者の肉体(乳房)は、自分の接した範囲内で言えば、ストレートな女性である自分の目には決して美しいものとは映らない。だから、美しい肉体(乳房)を手に入れようと思ってホルモンに手を出しても、効果がないどころか逆効果だと思う」と。
このような発言に対してだったら、ホルモン投与者の側も(少なくとも私は)それをサポートできたはずです。つまり、次のように言って。
「私はホルモン投与によって作られた自分の肉体(乳房)を美しいものだとはまったく思っていません。私は美しい肉体(乳房)を手に入れるためにではなく、自分の肉体に対するどうしようもない違和感、不快感を解消するためにホルモンを使っているのです。その結果、自分にとっては心地のよい肉体を手に入れることができて満足しています。ですからもしも肉体的な違和感の解消のためではなくて、美しい肉体(乳房)を手に入れるのが目的でホルモンに手を出すとしたら、それは愚かなことです。おやめなさい」。
女装者の安易なホルモン投与に警鐘を鳴らすのが目的ならば(そしてその目的にはなんら問題はありません)、それなりのやり方があるはずです。座談会の出席者のひとりも発言していましたが、本来ここで彼女たちにできるのは「私は(そして多くの女性は)ホルモン投与によって生殖能力にダメージを受けた男性を自分の人生のパートナーとして選ぶ気にはなれない」と発言することだけだったのではないでしょうか。そしてそのことを編集サイドはよく理解しておくべきだったのではありますまいか。

『くいーん』についての私なりの判断と決断
知性と想像力が欠如し、しかも思いやりにも欠ける雑誌に信頼を置くことはできない。したがってそういうものには関与したくないし、お金を払って買う気にもなれない。まず思ったのはそういうことです。
その後やや冷静さを取り戻して、『くいーん』114号の他の記事にもじっくり目を通し(ルルの「バラエティトーク」を除けば私には何の興味も持てない記事ばかりだったことにはショックを覚えましたが)、『くいーん』自体がその意志として、内容を大きくTV(趣味として女装を楽しむ人)(
用語についてを参照)寄りにシフトさせてきていることを感じました。もちろんそれは本来当然そうあるべきことなのでしょう(なんと言っても「アマチュア女装の殿堂」とも呼ばれるエリザベスを経営しているのと同じ会社から発行されている雑誌なのですから)。ところがTVではない(と思われる)読者も相当数いる。それどころかそういう読者が誌面で特に人目を引いていたりする。編集長ご自身もある時の私との雑談の中で、表紙を飾ったりフォトコンで賞をとる者のなかにホルモン投与者やプロが多いという現状に困惑されていたことがありましたが、さまざまなセクシュアリティーやジェンダー・アイデンティティーを持つ読者が混在するというあり方はもうそろそろ限界なのではないでしょうか。だったらTVではない者を切り捨ててTV向けに純化させた内容を貫くという意志が働いても無理はありません。
もちろん私自身がTV的価値観に基づいた雑誌の中で自己表現を貫くことに限界を感じ、正直うんざりし始めているという事実も一方では存在しています。とすれば、『くいーん』と私のお互いのためにも、これ以上私がここにとどまるのは賢明なことではない。『くいーん』に投稿しその誌面を占領することは避けなければならない。そういう判断に至り、今後『くいーん』とは訣別することを決意したのです。願わくば『くいーん』が「健全」なTVのための雑誌として発展すると同時に、以後無自覚に他人を傷つけることはないようにしてほしいと思っています。

「エリザベス」についての私なりの判断と決断
『くいーん』の問題と「エリザベス」を短絡的に結びつけるのは話が違う。そのことは十分に理解しています。しかしながら『くいーん』114号を出版したのと同じ会社(アント商事)が経営する「エリザベス」には意地でも自分のお金を一銭たりとも使いたくないと強く思ったのは動かしがたい事実なのです。
さらに自分自身のあり方を点検していくと、TVのための遊び場である「エリザベス」に常連客として存在していることから生じたさまざまな矛盾が露呈してきます。私は自分自身を「女装をする人」だとは思っていません。ぞの私が「女装をする人」のためにある「エリザベス」に頻繁に(年間100回ペースで)通っていたのはなぜなのかということを考えてみると、結局は人とのつながりだけが理由なのです。そこで数多くの友人たち(スタッフも客も)に会うことだけが目的だったと言っても過言ではありません。ところがそのためには面倒な手続きとして「女装」をしなければならない。あの場でわざわざ女性用の衣服に着替えお化粧をするというのは、少なくとも最近の私にとっては「重たい」ことだったのです。最近では着てきた衣服がメンズであれレディーズであれ、いっさい着替えずにお化粧はパウダリーファンデだけでお茶を濁すことが多かったのですが、ある時とうとう着替えも化粧もせずに過ごしたことがありました。次に来店した際さすがにスタッフに「口紅くらいは塗ってね」と言われ(そのこと自体はもちろん真っ当な発言なのですが)、そろそろここで過ごすのも限界かなと思ったりもしたのです。
とすれば、この場にとどまることは双方にとって好ましいことではないわけですから、潔く撤退するしかないだろう。そう決めたのです。

それ以外のTVのための遊び場についての私なりの判断と決断
少し考えてみれば、問題は『くいーん』と「エリザベス」にとどまらないことは明らかです。アント商事関連の『くいーん』と「エリザベス」にはお金を落としたくないという意志はよいとしても、その代わりに以後は他の場所で遊ぶというのでは、これまでに数多存在する、「エリザベス」に行くのをやめて新宿にある女装者相手の飲み屋に出入りするようになった女装者たちと同じです(もちろんそれはそれで少しも悪くはないのですが)。私自身が論理的に整合性のある行動をとるためには、「女装者のための遊び場」には今後いっさい出入りしないという決断をするのが正しいことだと思います。最終的にはそうなるのが必然でもありますが、当面は「遊び」が目的で「女装者のための遊び場」(女装スナックだのイベントだの)に出入りするのはやめるということに決めました(自分にとって大切な人たち、つまりパートナーであるN氏や深津ルルや芹沢香澄と過ごすためだったらそういう場に出入りするのも当面はありということ)。
私はいま、女性ものの衣服を身にまといお化粧をして仕事に通っています。自分が女性ホルモン投与によって生殖能力を失ってしまったことについても、母親を含め周囲の何人もの人たちに打ち明けています。自分を取り巻く社会的な状況と我ながら巧妙に折り合いをつけながら(もちろん綱渡りですけれど)、少しずつなしくずし的に自分自身の意志を押し通しています。今の私にとって大切なのはそういうリアルな現実であって、決してヴァーチュアルリアリティに遊ぶことではありません。深津ルル的な言い方を借りれば、銀河が銀河としてここに居るために。

誤解を避けるために
本来言うまでもないことかもしれませんが、私は『くいーん』はともかく、「エリザベス」に反感や悪意を持っているわけではありません。むしろ、いまだに愛着を抱いていると言ってもよいと思います。ですから、今回の私の決断が反「エリザベス」キャンペーンに利用されることがあるとしたら、それは私の本意ではありません。また、私をなぐさめてくださるという善意からなのでしょうが、私に対して「エリザベス」の悪口を言い立てる方もいらっしゃいますが、正直ムカツキます。おやめください。もちろん私自身の今回の決断についてのご批判はご自由になさってください(私に対して直接でも、私のいないところでも)。思想と言論は無条件に自由です(責任は伴いますが)。以上、誤解なきように。

[回想記]
以上の意見に対しては、非常に多くのご賛同とわずかなご批判をいただきました。ありがとうございました。過日、『くいーん』のメイルライン(読者の投稿欄)に投稿した原稿を撤回する旨を『くいーん』の石川編集長にお伝えした際、「座談会の内容は間違っているとは思わないし、自分の発言を撤回しようとも思わない。あなたの反論に答える気はないし、そもそもあなたは『くいーん』とも「エリザベス」とも訣別したのだからもう私とは無関係の人だ」という趣旨のことを言われました。非常に残念な気持ちになりました。これで終止符。(1999年9月1日記)


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I am grateful for the time we had together.