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「シヴァはどこだ?」
ジルジスはいった。むろん、眼前に呆然とたたずむ半裸の少女に見覚えはない。ただ彼女は「ジルジス」と口にした。
盗賊ジルジス・シャフルードの名前を知っていても、たいがい発する第一声は「シャフルード」だ。だから、目の前の見知らぬ少女はジルジスをジルジスと呼ぶだれかを知っていると直感したのだった。
「あっちよ」
少女はあまり躊躇しなかった。きっぱりといいつつ、背後を指さしてみせる。
アタッチメントを装着したブラスターを、ジルジスはかまえる。
引きがねをしぼった。
先端からいきおいよく青い霧が吹き出す。レイ特性の消火煙だ。シヴァのサイコバーストには、過去三度ほど遭遇している。通常の方法では鎮火することはできなかった。だからレイに依頼して、サイコバーストにも対応可能な消火方法を開発したのだった。
もちろん、今回もサイコバーストに遭遇するという確信があったわけではない。ただシヴァからの発信が途絶えた時点で、彼の身に変事が到来したと想定し、対応の一環としてくだんの消化器を内蔵したアタッチメントを用意していただけのことだ。
またたくまに炎が吹き消されていくさまを少女は寸時、呆然とながめやっていたが、すぐに先に立って走りはじめた。
「こっちよ。急いでジルジス。まだタバータバーイーがいる」
タバータバーイーというのが何者のことなのかはわからなかったが、ジルジスはあえて何もきかず少女の指さす先をつぎつぎに鎮火していった。
地下へ降りる。蔓延していた黒煙がみるみる晴れていくところを見ると、換気装置は充分に機能を果たしているらしかった。
黒こげになった鉄枠を残して焼けただれた扉が、青い煙の向こうにあらわれると、少女は「シヴァ!」と叫びながら迷わず室内に飛びこんだ。
ジルジスもあとにつづく。
素顔のシヴァがそこにいた。
初めて会ったときのことを思い出した。
見えぬ何かに、怒り狂っていた男のことを。
ステーションをなめつくした大火災と、遭遇した男とのあいだに因果関係があったかどうかはいまだにわからない。だが、怒り狂う男がきわめて危険であることを、そのときジルジスは直感した。
だから、シヴァと名づけた。
いま眼前にいる破壊者の名を持つ男は、彫像のように穏やかな顔をしていた。
静かに顔を上げ、わずかに少女に向けてうなずく。
「ジルジス」
それから口にした。
「そいつがタバータバーイーか?」
ジルジスもいった。
無言でうなずくシヴァの前、焼け焦げた煉瓦床の上に横たわるタバータバーイーの姿があった。
手には奇妙な器具を握りしめている。
「シヴァ!」
叫びながら少女がシヴァに抱きついた。
男が抱き返すのを見て、ジルジスは目をむいた。
ついで、口笛を鳴らす。
「驚いたな」
「セイエドは?」
軽口をかわすごとく、シヴァが問うた。
「さっき向こうでかちあった。『とどかぬ明日』は別宅にあるらしい。ラエラとマヤが連行した」
「そうか」こころなしか、淡々とした声音に安堵がこめられているようにきこえた。「ではおれの役目もここまでだ」
静かに視線を向ける。
ジルジスはにやりと笑った。
「過去はとり戻したのか?」
「いや」
「じゃあ、素顔は?」
シヴァは答えず、仮面をつけない顔にそっと手を当てた。
抱きしめる腕の下、見つめる少女にしばし視線を向け、
「かもしれない」
それだけ答えた。
「わかった」黒い盗賊はあっさりと背を向ける。「達者でな」
ああ、との答えに、歩を踏み出そうとした。
油断だったかも知れない。
おそらく、殺意が自分に向けられていたなら対応もできただろう。
シヴァにしても事情は同じだったようだ。
一瞬だけ遅れた。
致命的な一瞬。
がば、と起き直ったタバータバーイーの手にした針先が、少女の延髄に深々と突き立てられた。
貫かれた針は、シヴァの胸までうがっていた。
シヴァには致命傷ではない。死んでいたほうが幸せだったかもしれない。
あからさまな驚愕の表情がシヴァの素顔を占拠し――つぎの瞬間、鬼の形相がタバータバーイーに向けて爆発した。
起きあがった男の頭部が、パンと音を立てて破裂する。
肉塊と化した胴が少女に倒れかかるのを、シヴァは蹴り飛ばした。
「フィローリア!」
シヴァが叫ぶ。
少女は答えず、幸せそうに笑ったまま想い人の胸に顔をうずめていた。
黒い盗賊はしばし、呆然とそのさまをながめやっていたが――首をなくした醜悪な人間の残骸を無造作にわしづかみ、引きずりながら部屋をあとにした。
いったん出口とは反対の方角に向かって、まだ燃えている一角に男の死骸を放り捨て、煉瓦敷の部屋を素通りして屋敷をあとにした。
炎のなかで邂逅したとき、男は名前も過去もなくしていた。
シヴァという仮の名を与え、おそらく彼にとってはかりそめの時間をともに過ごしてきた。
そして少女と抱きあっている男は、シヴァとも、過去の彼ともちがう第三の名前を得ていたように見えた。
新しく得たばかりの時間を喪失して、男は再びかりそめの名とともに戻ってくるだろう。むろん、かけるべき言葉などこの世界にはない。
残された炎をところどころに発する屋敷を背に、夜空にくろぐろとそびえる塔をながめ上げながら盗賊は、広大な庭園の一角に腰を降ろして静かに待った。
消えない火災にかけつけた消火隊が四苦八苦したあげく、ようやく燃えあきたように炎が鎮まったころには、夜も明けかかっていた。
仮面をつけた男が無表情にあらわれ、黒い盗賊の前にたたずむ。
盗賊はしばし男をながめあげ、やがて立ち上がった。
無言のまま、肩をならべて歩き出す。
見知らぬ鏡像――了